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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-源氏物語講話-

第7回
「六条御息所」考―鎮魂として(二)


夕顔と六条御息所

ところで、この六条御息所を、「夕顔」巻「なにがし院」で夕顔にとりつく「魔性の女」と見る向きがあるが、どうだろう。

この「なにがしの院」は、九世紀後半の左大臣源融が造営した「河原院」を髣髴とさせるが、実際の「河原院」は、源融亡き後(895年没)、その子の昇を経て、宇多院に贈与された。従って、宇多、醍醐天皇の時代は、当然のことながら、天皇家の所有に帰しており、そこを桐壺帝(醍醐帝がモデル)の皇子である源氏が自由に使用するという設定は、物語ながらよくわかる。

そして、この「なにがしの院」=「河原院」に光源氏が夕顔を伴って訪れたところに怨霊が現れるという構図は、そのまま、その昔、宇多院が、京極御息所を伴って「河原院」を訪れ、そこで源融の怨霊に脅されたという構図に通うところがある。すなわち、この「夕顔」巻での「なにがしの院」の場面の背景には、もともと「河原院」に棲みついていたという「融の怨霊」が持つイメージが取り込まれたものと思われ、この時点で「六条御息所」の怨霊を想定するのは、「葵」巻以降の彼女のイメージ(生霊)に引きずられたものに過ぎないだろう。

ただ、「夕顔」巻での六条御息所と夕顔との対比が、「朝顔」と「夕顔」の「花」の対照性に求められたように、その対照性は、源氏との愛のあり方においても、指摘することができる。それは、この時、源氏がそれこそ夢中になってのめり込んでいる「夕顔」と、すでに我がものとなった後の、今では少し醒めた気持ちにある「六条御息所」との対比である。

「夕顔」巻の一節では、次のように語られている。

とけがたかりし御けしきをおもむけ聞こえたまひし後、ひきかへしなのめならむはいとほしかし。

(求愛になかなかなびかなかった御息所のお気持ちを、従わせ申すことになった後、手のひらを返すようにぞんざいな扱いになっているのはまことにお気の毒である)

「とけがたかりし御けしき」とは、源氏の求愛に対して御息所はなかなかそれを承知しなかったということであり、御息所という人のプライドの高さを表してもいるが、しかし、いったん源氏を受け入れた後は、当の源氏が「ひきかへしなのめならむ」態度、すなわち一転して以前のような情熱がなくなっているのは「いとほしかし(気の毒なことよ)」というのである。

「男」というものは本来そういうものである、というようなことを面白がるよりも、ここには、物語の語り手による「いとほしかし」という強い同情的心情が吐露されていることに注意しなければならない。

この箇所、おそらく、御息所に近侍する女房の側からの「語り」(草子地)と考えていいが、このくだりには、純粋に御息所の、「女」としての心情が吐露されてもいると見ていい。男からの求愛を受け、逡巡したあげくに、それを思い切って承け入れ、そして顧みられなくなった女のかなしみが、さりげなく表出されているところではあろう。

このように、「夕顔」巻に初めて登場する御息所は、けっしておどろおどろしい怨霊といったようなイメージではなく、それは、愛する男(源氏)に、すでに思うように愛されなくなりつつある「かなしい女」としてのそれであったと言えよう。そして、「夕顔」巻における六条御息所は、あくまでも、夕顔という女との対比において描かれているということは確実に言うことができる。それは、夕顔の死の直前において、確かに、夕顔との比較対照の相手として、次のように光源氏の脳裏に思い浮かべられているからである。

かつはあやしの心や、六条わたりにも、いかに思ひ乱れ給ふらむ、うらみられむに、苦しうことわりなりと、いとほしき筋は、まず思ひきこえたまふ。何心もなきさしむかひを、あはれとおぼすままに、あまり心深く、見る人も苦しき御ありさまを、すこし取り捨てばやと、思ひくらべたまひける。

(一方で考えてみれば、こんな女に夢中になるなんて、自分ながらおかしな心だ、六条 あたりのお方も、今ごろはどんなにか思い乱れていらっしゃることだろう、恨まれるだろうと思うにつけても、つらいことだし無理もないことだと、申し訳ないと思うことにかけては、まずこの六条の女君のことをお思い申し上げなさる。目の前で無邪気に座っている女君を、可愛いとお思いあそばすにつけても、六条わたりの女君があまりにも思慮深く、相手の自分も息が詰まるような重苦しいところを、もう少し取り捨ててほしいものだ、と思わず思いくらべなさるのであった。)

このくだりの直後に、

宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上に、いとをかしげなる女ゐて、

(深夜になって、源氏君が少し寝入りなさったところ、枕元に、とても美しい感じの女が座っていて、)

と続き、その女が、

己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かくことなることなき人を率ておはして時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ

(私がたいそうご立派な方だとお慕い申し上げているのに、私のところにお出でにならず、こんな取り柄のない女を連れていらっしゃってご寵愛なさるのが、とても心外で恨めしうございます)

と源氏を非難するのである。

このあたりを丁寧に読むと、源氏が心の中で目の前にいる夕顔と「六条わたり」の女君(六条御息所)とを比較した直後に魔性の女が出現することとなり、流れとしては、いかにもその女が六条御息所のようにも読めるわけだが、しかし、源氏の夢に現れた女は、「いとをかしげなる女」と描かれていて、源氏の眼には御息所その人とは映っていないようである。また、その女の言葉も、夕顔を「ことなることなき女」(取り柄のない女)と言い、さらには「いとめざまし」と高位者からの言葉ではあるものの、「尋ね思ほさで、かくことなることなき人を率ておはして」(私のところにお出でにならず、こんな取り柄のない女を連れていらっしゃって)と言うのは、もともとこの「なにがしの院」に住む女であるかのような物言いとも言えるのではないだろうか。

つまり、作者の書き方からすれば、六条御息所であるとも、そうではない人物とも受け取れるように描いたのではないかと思われる。まあ、読む方のご自由にどうぞ、ということなのかもしれないが、しかし、源氏が「見たまふ」「夢」に現われたとある以上、少なくとも、「葵」巻に出現する御息所の「いきすだま」(生霊)のようなものとはまったく違う性質のものであることは認めておかなければならない。

この稿続く

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