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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-源氏物語講話-

第9回
「六条御息所」考―鎮魂として(四)


皇位継承の光と影―「前坊」と「御息所」

ところで、我々は、この女性のことを、普通「六条御息所」と呼んでいる。いわゆる人物呼称ということであるが、『源氏物語』の場合、物語本文でそのように書かれるものと後の読者がそのように呼ぶようになったものとの二通りがある。六条御息所の場合は、前者であって、「葵」巻の冒頭付近に、次のような記述があるのである。

まことや、かの六条の御息所の御腹の前坊(せんばう)の姫君、斎宮にゐ給ひしかば、

(ああ、それはそうと、例の六条の御息所がお産みになった前皇太子の姫君が、伊勢の斎宮にお決まりになったので、)

ここで「かの六条の御息所」とある「かの」とは、その時点での既出の情報を前提とする表現である。つまり、これは、「夕顔」巻の「六条わたりの御忍びありきのころ」、「若紫」巻の「おはするところは六条京極わたりにて」、あるいは、「末摘花」巻の「六条わたりにだに、離れまさり給ふめれば」などと書かれている表現を承けていることは明白である。

これら「夕顔」「若紫」「末摘花」の三巻では、光源氏が通う相手の女性(六条御息所)については、「六条」に住んでいること、その身分は決して低くはないだろう、ということぐらいのものであり、その人物像はぼんやりとしたものであったのだが、この「葵」巻での表現で、その素性は、初めて明白になったということが言えるのである。その素性とは、当該の女性が「御息所」であり、「前坊の姫君」を産んだ女性である、ということにほかならない。

語彙としての「御息所」(みやすんどころ)とは、「天皇に侍する宮女の敬称。皇子、皇女を産んだ女御・更衣をいう場合が多いが、皇子・皇女のない場合にも、また広く天皇に寵せられた宮女にもいう」(日本国語大辞典)とあるとおりだが、『源氏物語』の場合には、基本的に、本居宣長が「御息所とは、皇子、皇女をうみ奉り給へる女御更衣などをこそ申しつれ」(『玉勝間』)と説いているとおりである。とすれば、六条御息所とは天皇の寵愛を受けた結果姫君を産んだのかと言えば、そうではない。彼女が産んだ姫君は、「前坊の姫君」とあるのであって、前皇太子の姫君を産んだ結果、「御息所」と呼ばれているのである。「坊」とは「春宮坊」の略、転じて「春宮」(皇太子)その人を指す言葉である。「前坊」とは前皇太子、ということになるのである。

皇太子とは、古くから「日嗣の皇子」(ひつぎのみこ)と言われているように、次代の天皇即位が約束されている人物である。それは、天皇に準ずる立場にあるということであって、その后も、次代の天皇の后としての扱いであった。従って、皇太子の御子を産んだ妃も、まさに天皇の子を産んだ后に準ずる扱い(「御息所」の呼称)がなされているということなのである。

この「六条の御息所」が「前坊の姫君」を産んでいるという「葵」巻の記事について、我々は注意深く検討を加えねばならないだろう。この場合の「前坊」という表現は、いったい何を語ろうとしているのか。それは、六条御息所の夫が「皇太子」ではあったが、今はそうではない、ということにほかならない。この「前坊」と呼ばれる人物は、いったいなにものなのか、ということが問われなくてはならないのである。

「葵」巻で、葵の上が死去した後、御息所は源氏に弔問の文を送るが、それに対する源氏からの返事を読むところで、次のような御息所の胸中が語られる。

なほいと限りなき身の憂さなりけり、かやうなる聞こえありて、院にもいかにおぼさむ、故前坊の、同じ御はらからといふなかにもいみじう思ひかはし聞こえさせ給ひて、この斎宮の御ことをも、ねむごろに聞こえつけさせ給ひしかば、その御かはりにも、やがて見たてまつりあつかはむなど、常にのたまはせて、やがて内裏住みしたまへと、たびたび聞こえさせ給ひしをだに、いとあるまじきことと、思ひ離れにしを、かく心よりほかに若々しきもの思ひをして、つひに憂き名をさへ流し果つべきことと、おぼし乱るるに、なほ例のさまにもおはせず。

(やはり、この上もないわが身の上の情けなさであったのだ、このような噂が広まって、桐壺院もどのようにお思いになられるであろうか、亡き前皇太子が、桐壺院とご同腹のご兄弟というなかでもお互いに大層仲睦まじくしていらっしゃって、前皇太子が、生前この斎宮(娘)のことをこまごまとご依頼申し上げなさっていたので、前皇太子が亡くった後は、桐壺院は、その御代わりにも、そのままお世話申し上げようなどと、いつも仰せになられて、このまま後宮にお残りなさいと、何度も御息所に申し上げなされたことさえ、とんでもないことだと、考えようともしなかったのに、このような思いも掛けないことに年がいもない恋ゆえの物思いをして、最後には情けない評判まで流すことになるにちがいないと、ひどく懊悩なさるので、やはりお具合は回復なさらない。)

この御息所の述懐でまず注意しなければならない点は、御息所の夫である「前坊」と桐壺院との関係であろう。「同じ御はらから」ということは、母后が同じということで、そのうえ、「いみじう思ひかはし」とあるように、その兄弟仲はとてもよかったのである。そういう関係での桐壺帝時代の皇太子―厳密に言えば「皇太弟」―であったということになる。

しかし、この「皇太弟」は病に倒れたものと思われる。「この斎宮の御ことをも、ねむごろに聞こえつけさせ給ひしかば、」とは、自身の死後、後に残る姫君のことを、兄帝に懸命に依頼したということなのであって、朱雀帝即位にあたっての斎宮卜定の儀も、弟の願いに兄帝が応えた結果と言っていいだろう。

そして、桐壺帝は、皇太弟死後に取り残された六条御息所に対して、「やがて見たてまつりあつかはむ」と言い、弟に代わって自身がお世話申し上げようと働きかけている。具体的には、今までどおり「内裏住みしたまへ」ということなのであるが、むろん、宮中でそのまま暮らすということは、自然に桐壺帝の寵愛を受けるということを意味するのであった。

六条御息所は、この桐壺帝の申し出に対して、「いとあるまじきこと」と固辞したのであった。その後どのような経緯によるものかは書かれていないが、その桐壺帝の皇子である光源氏の求愛を、厳しい拒否の姿勢を示しつつも、しかし、ついに受け入れることになったのであった。

今上帝の求愛を辞退し、その皇子ではあるが、あくまでも臣下に過ぎない光源氏の求愛を受け入れる―この構図からは、この物語における「光源氏」という物語上の人物造型(いろごのみ像)を読み取らねばなるまいが、六条御息所が抱える光源氏への愛というものが、もともと複雑で屈折したものとならざるを得なかった所以ではあると言えるだろう。

この稿続く

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