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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-源氏物語講話-

第14回
大い君の死について(三)


「世に数まへられたまはぬ古宮」のこと

それまでの物語では、一切語られることはなかったが、八の宮の運命の激変ぶりについては、「橋姫」巻冒頭で次のように語られている。

そのころ、世に数まへられたまはぬ古宮(ふるみや)おはしけり。母方なども、やむごとなくものしたまひて、筋異なるべきおぼえなどおはしけるを、時移りて、世の中にはしたなめられたまひける紛れに、なかなかいと名残なく、御後見などももの恨めしき心々にて、かたがたにつけて、世を背き去りつつ、公私に拠り所なく、さし放たれたまへるやうなり。

(その頃、世間からは忘れられなさっている古くからの親王様がおいでであった。母の里方なども、立派な家柄でいらっしゃって、特別な地位に昇られるであろうという噂などがおありであったが、時勢が変わって、世間から冷たく扱われなさるような目にお会いになった騒動に、かえってその声望もすっかり衰え、ご後見の方々なども何となく恨めしい思いで、それぞれの理由で政界から身を引かれたりして、公私ともに頼る人がなく、すっかり見放されなさったようなご様子である。)

ここで言う「世に数まへられたまはぬ古宮」こそ「八の宮」であり、この「古宮」は世間からは忘れられていると言うのである。平安朝、世間から忘れられてゆく、あるいは忘れられた「宮(親王)」というものは、数多く存在したであろう。すべての天皇がそうではなかったが、基本的に、天皇の后は多数が入内するのが慣例であって、たとえば、「後宮十二殿舎」と呼ばれるように、その受け入れ態勢は、嵯峨天皇以降十全に整えられたと言っていい。

そもそも天皇の后が多いのは、天皇家の存続を確実に保証するためではなかったかと思われる。天孫降臨という伝承に基づく天皇家の系譜は、何よりも天皇の血統が維持されなければならなかったから、その後嗣は多すぎて困るという観念はなかったであろう。しかし、藤原光明子立后(光明皇后)によって、臣下出身の后が皇后(中宮)となる道が容易になってからは、各有力氏族は、競って自家の娘を入内させるようになった。ただ、天皇の后については、その身分や数が「後宮職員令」(養老律令)によって細かく規制されていたから、平安朝(桓武、嵯峨朝)に入ると、「女御」「更衣」という「後宮職員令」には抵触しない形の后が出現することになったのである。また、これら以外にも、后ではなかったが、天皇の身辺に仕える「宮女」たちも、天皇の皇子を産む機会も多かった。その結果、色好みの天皇の場合、その皇子は相当な数に昇ることになったのである。

このことは、当然のことだが、天皇家の財政を大きく圧迫することとなった。そのため、たとえば、特に多くの皇子を誕生させた嵯峨天皇の場合、基本的に、臣下出身の后が産んだ皇子のうち、多くは「源」という姓を与えられて天皇家を出たのであった。いわゆる「賜姓源氏」の出現である。つまり、皇位継承権は、皇子すべてに与えられるわけではなく、皇子の中から特別に選ばれた男子が、「親王宣下(しんのうせんげ)」という手続きを経た上で、正式な天皇家の一員となるとともに、皇位継承権を持ったのである。これが「親王」(宮)と呼ばれる皇太子候補者であって、この中からいわゆる「立太子」の儀を経て、正式な後嗣(皇太子・皇太弟)が指名されるのである。

従って、貴族社会においては、「親王」(宮)とは、正統に皇位継承権を有するという意味において、むろん、将来は嘱望されたはずであった。そうではあったが、しかし、親王の中の一人が立太子するということになれば、その他の親王は、多くが「宮」としての誇りと対面を保ちつつ、親王としてその生涯を生きてゆかねばならなかった。中でも、父である天皇の在位の後半に生まれた親王の人生は、けっして楽なものではなかったであろう。なぜなら、天皇の在位は、その崩御まで続くというケースは稀であったからである。

たとえば、天皇の系譜について9世紀に限定してみるならば、「歳は百年あまり、世は十継ぎ」と「古今集仮名序」に書かれるように、天皇の在位期間は平均十年で推移している(明治以降の、天皇の崩御を受けての皇位継承のあり方はむしろ異例と言っていい)。となれば、天皇在位の後半に生まれた親王は、母親の出身氏族にもよるが、皇位継承権を持っても、父である天皇の譲位後は、その立太子への道はかなり困難なものがあったのである。 したがって、宇治の「八の宮」の場合、桐壺帝の「八」番目の「宮」ということであったから、たとえ母親の出自が「やむごとなくものしたまひて」と言われる家ではあっても、もともと立太子の可能性は少なかったのであった。そういう八の宮であるからこそ、冷泉の廃太子を目論む弘徽殿の大后方から白羽の矢を立てられたということができるのである。

一方、朱雀帝の皇太子(厳密に言えば皇太弟である)冷泉は、桐壺帝の「十の宮」なのだが、実際は源氏と藤壺との子であることは言うまでもない。母である藤壺は内親王であり、その身分は高い。藤原氏出身の弘徽殿の大后方からすれば、朱雀の譲位後、源氏が後見する内親王腹の冷泉がそのまま即位することになると、まさに、政治の中枢は、源氏方にほとんど独占されることになるであろう。このことは、なんとしても避けねばならなかった。そこへ、今上帝(朱雀)に関わるかたちでの光源氏のスキャンダルが発覚(朧月夜との逢瀬)し、源氏は、須磨へと退去することとなったが、むろん、残された皇太子冷泉も、きわめて深刻な危機を迎えることになったのは言うまでもない。

そして、その時、母親の出自が尊いとされる八の宮が、一躍冷泉の廃太子を前提として担がれることになったのである。このことは、八の宮側からすれば、まさに僥倖と言うべき事態の出来であった。物語で「筋異なるべきおぼえなどおはしけるを」(特別な地位に昇られるであろうという噂などがおありであったが)とあるのがそのことなのであって、「八」番目の「宮」に、皇太子、天皇への道が拓かれることになったのである。

八の宮立太子のことを噂に聞く貴族社会は、おそらくは、将来に向けたさまざまな忖度を行うはずであって、宇治川畔の八の宮の「別業」も、あるいは、そういったことの一つの形であったのかもわからない。

この稿続く

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