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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-源氏物語講話-

第29回
「巻名」を考える(三)―「帚木」補遺、「園原」のこと


園原や伏屋におふる帚木のありとてゆけどあはぬ君かな

前稿(「巻名」を考える(一)―「帚木」)で述べたとおり、「帚木」巻の巻名は、『古今和歌六帖』に載せる、坂上是則の当該の一首に基づいている。しかも、「帚木」巻後半に見られる光源氏と空蟬との贈答を含めて、そのドラマの構造そのものが、この一首の内容に基づいているとなれば、この歌は、作者の紫式部にとって、また、第一次の読者として作者が強く意識していたに違いない彰子後宮の女房たちにとっても、きわめて身近なものであったに違いない。

前稿の補遺として、今回、「園原」の地に出かけてみることにした。この歌の背景について、リアリティーの中で捉えてみたいと思ったからである。


園原へゆく

「園原」は、信濃国、伊那郡内の園原地区(現下伊那郡阿智村)のことで、萬葉の歌人も詠うところの、いわゆる「歌枕」である。古代律令制下の東山道が抜ける土地で、美濃国(岐阜県)と信濃国(長野県)の国境となる「神坂(みさか)峠」の信濃側の山間に位置する地区となる。神坂峠が極めて険阻な山路であったことから、古代、ここを越える旅人のために、宿泊休憩用の粗末な建物―「布施屋(伏屋)」が設置されたことは前稿で触れた。ただ、「帚木」については、諸注、遠くからは見えるが近寄ると見えなくなる「伝説上の樹木」とするのみで、その実態は不明としか言いようがなかったのである。

ところが、この園原地区のことを詳しく調べていたら、この地区に「帚木」と呼ばれる樹木が、実際にあったらしい、ということがわかったのである。そこに実際にあったということであれば、近づくと消えるといった、あたかも幽霊のような「伝説上の樹木」ではあるまい。

とにかく、園原地区を尋ねてみることにしよう。まずは、園原の里の案内所を兼ねている「東山道・園原ビジターセンターはゝき木館」を訪問することにした。さいわい、群馬県高崎から車を飛ばせば、さほど遠くもない距離である。目指すは、中央自動車道の園原インター、そこは恵那山トンネルの手前だから、実は、過去数えきれないほど通過している。それにしても、ゼミや講座であれほど親しんだ「帚木」巻であるのに、今回初めて「園原」を訪れることになるとは、これは、古典文学の世界をリアルに読むという姿勢が、迂闊にも欠落していたと認めざるを得ない。

東山道・園原ビジターセンター はゝき木館神坂峠方面を望む



帚木(ははき木)はヒノキだった

「東山道・園原ビジターセンターはゝき木館」は、神坂峠に登る手前、標高およそ800mの地点にある。そこは、「阿智村全村博物館構想拠点施設」となっている公営の施設である。このあたりから神坂峠までの山路は、古代東山道跡と推定され、標高1576mの神坂峠までは、およそ10㎞はある。この険しい山道を歩いて行けば、私の足ではゆうに4時間はかかりそうである。

神坂峠までは無理ですが、手前の神坂神社までは車で行けます、駐車場もあります

と、はゝき木館のスタッフの方から案内をいただいた。学芸員のような趣を持つご婦人で、こちらの質問に、てきぱきと説明してくださるのがありがたかった。

園原地区に「ふせや」という地名はありますか?

私が、このようなお尋ねをしたのは、あくまでも確認という気持からであった。「ふせや」は、9世紀初頭に設置された施設のことだから、本来地名ではない。しかし、和歌の「そのはらやふせやに生ふる」という語句の表現から考えるならば、地名という解釈も可能なのである。事実、「新潮日本古典集成」の頭注では、

「帚木」は、信濃の国、伊那郡、園原の伏屋という所にあった帚を逆さにしたような木で、遠くからは見えるが近づくと見えなくなるという。(『源氏物語(一)』)

と解説し、明らかに「園原の伏屋という所」という理解を示しているのである。今日、この「ふせや」という語彙がどこかに地名として残っているかもしれない、という思いがあったのである。

しかし、そのスタッフの方は、もう一人の方にも確認されたうえで、

園原地区に「ふせや」という地名はございません

と明確に否定されたのであった。やはり、「伏屋」は、もともと「布施屋」であって、その粗末な形状から、卑しい住居というイメージが派生したものと思われる。むろん、言葉としては、都の人々からすれば、「園原の伏屋」という理解がなされたのは当然であって、あたかも「所の名」のような受け止め方がなされていったに違いない。

そして「はゝき木館」の館内を見学していた私は、そこに掲示されていた古代東山道のルート復元図の中に、「ありし日のははき木」という「写真」があることに気がついた。写真があるということは、それが昔の事であるとしても、実際にそこにあった樹木ということになるではないか―。思わず、私が、

ハハキギという木は、実際にあったのですか!?

と聞くと、スタッフの方は、

そうです、ハハキギはヒノキです、背が高いヒノキで、遠くからはよく見えるけれど、そこへ近づくと、他の多くのヒノキに紛れて、分からなくなるというのですね。

と、明快に答えられたのであった。―なんと、「帚木」は、「檜」の木だったのである。そして、旅人が目印として目指すものの、そこに到着すると、多くの檜林の中でその背の高い樹が分からなくなるのだという。なるほど、これは、幽霊どころか、実にリアリスティックな話ではあるまいか。

美濃側から険峻な東山道の神坂峠を登ってきた旅人は、やがてその下方に「箒」を逆さに立てたような背の高い樹を目標として、そこにある「布施屋」まで辿り着いたのであろう。しかし、辿り着くと、今まで目指してきたその樹は、いったいどの樹であったのか分からなくなるというのである。

この話が、あるいは、「遠くからはほうきを立てたように見えるが近寄ると見えなくなるという伝説上の樹木」(日本国語大辞典)という諸解説の源泉であるとすれば、地方の珍しい風景や話が、口承文芸のような形態として都に伝播したもののようで、おもしろい。


東山道と国司(受領)

そうした地方の珍しい話を都にもたらしたのが、地方官として全国に赴任した国司であったろう。国司は、「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「目(さかん)」の四等官から構成されるが、その他必要に応じて事務官や医師なども置かれた。律令制による国司の特色は、これらの地方官が、基本的に都から派遣されたことであった。つまり、四等官の身分に応じた赴任であって、家族を伴う着任も多かった。このように国司として赴任してゆく中下級の貴族たちを、「受領」と総称したのである。

受領たちは、「春の縣召し」と呼ばれる人事で、「五畿七道」からなる諸国へと赴任して行った。この「五畿七道」は、律令による行政区分ではあるが、各道に実態としての行政組織があったわけではない。列島を大まかに区分する、言わば理念上の行政単位であった。しかし、大化改新以降わが国初の中央集権国家の根幹は、全国から諸税を中央に送ることであったから、これらの「道」は、理念上とはいえ、実際の税の運搬上の「道」でもあったのである。

この中でも、園原を通過する東山道(近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥)は、東日本の山間地帯を貫くため、他の六道(西海道・南海道・山陽道・山陰道・東海道・北陸道)と異なって、海路や海岸沿いの土地の利用はなかった。要するにすべての行程が山道だったため、諸税の運搬に従事する人足たちやその統括管理にあたる諸国の国司には、ずいぶんと苦労が多かったのではないか。

東山道中、最大の難所と言われる神坂峠での難渋な峠越えが、近づくと消えるという「帚木」の伝聞を生み、さらに、坂上是則の和歌へと展開していったものと思われる。

なお、この神坂峠の峠越えについては、わが国初の勅撰漢詩集『凌雲新集』(814年)に載せる坂上今継の「渉信濃坂」に、その険阻な山路に苦しむ旅人の難渋ぶりが詠われている。「信濃坂」とは、「神坂峠」の古名で、坂上今継は、きわめてリアルにこの峠の険峻さをうたいあげている。彼は、平安時代初期の人であるが、同じ坂上氏である是則と、系図上どのような繋がりがあるのかはわからない。ただ、この峠の難渋さを、漢詩というかたちで正面から取り上げている点、彼が、そういう苦しみに直接遭遇したか、あるいは、彼の一族の誰かが遭遇したに違いない。

神坂峠に向かう古代東山道跡。



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