-源氏物語講話-
第32回
日本紀などは、ただかたそばぞかし」―「螢」巻の「物語」論(一)
『三宝絵詞』の「物語」批評
原点から述べることにするが、中古語の「ものがたり」という言葉の語義そのものは、基本的に「おしゃべり」ということである。つまり、「咄(はなし)」であって、この文化形態(と言っておく)を、十世紀初頭前後からの我が国における「仮名」の発生と隆盛とが、「文字」として定型(作品)化した。これが作品としての「物語」の始発ということになる。
権門勢家の女性たちは、日常において、極めて退屈な生活を余儀なくされていたので、それを慰めるためにも、近侍する女房には、文字どおりの「おしゃべり」の力(話のうまさ)や作品としての「物語」の創作能力が求められたのである。その中身は、とにかく姫君を楽しませるものでなければならなかった。紫式部という人が、そういう権門の姫君に近侍する女房の一人であったことは言うまでもない。
十世紀に入って多くの物語作品が制作されたが、それらのほとんどが散佚している。ただ、源為憲が、出家生活を送ろうとする尊子内親王のために執筆した『三宝絵詞』(九八四)は、当時流通した「物語」がどのようなものであったかを知る上で、きわめて重要な手がかりを与えてくれる。
『三宝絵詞』の主旨は明快で、「物語」は「女の御こころをやるもの」(女君の退屈な気持を晴らすもの)と言い、さらに、その流布の状況について、「大荒木の森の草よりも繁く、有磯海の浜の真砂よりも多」いと言う。十世紀後半、いかに「物語」が大量に制作され流布していたかがわかるであろう。為憲は、引き続き、それらの「物語」の内容についても詳しく述べている。
まず指摘するのは、人間以外が主人公である物語のことである。これは、民俗学で言うところのいわゆる「異類物」で、主人公に「名」を付け、「物言はぬものに物を言はせ」、「情けなきものに情けを付け」ているので、それらは、「浮かべたることをのみ言い流し」、「真なる言葉をば結び置かず」の内容だと言う。つまり、中身は「嘘」だと言うのである。
また、さらに指摘するのは「男女などに寄せつつ花や蝶やと言へる」物語である。これは、「花や蝶や」と言うのであるから、男女の「恋愛物」ということになろうが、むろん中身は夢のような恋物語と言っていい。これらはみな同じことで、真実の世界か噓の世界かと言えば、熱中する読者には酷な話ではあるが、嘘と言うほかはあるまい。嘘の世界である以上、これらの物語を楽しむことは「罪の根」から茂った「言の葉の林」に親しむことであって、仏道生活の妨げになるのだと、為憲は、「物語」を強く否定するのである。
この『三宝絵詞』の叙述から学ばなければならないことは、今日伝来している平安朝前期(10世紀)の物語作品は、はたして、当時の物語一般の姿を留めたものなのだろうか、ということである。たとえば現存する『源氏物語』以前の物語は、『竹取物語』『宇津保物語』『落窪物語』『伊勢物語』等、ごく少数であることは周知のとおりであるが、これらは、十世紀に流行した物語一般の中では、きわめて珍しい存在で、それらはむしろ異色と言っていいような物語であったと考えるべきであろう。
「物語」と「日本紀」
『三宝絵詞』が言うところの当時の物語一般の在り方は、紫式部もよく心得ていたと思われ、「螢」巻で、「物語」に夢中になっている玉鬘に対して、光源氏に次のようなことを言わせている。
女こそ人にあざむかれむと生まれたるものなれ、ここらのなかに、まことはいと少なからむを、
(女こそ、人に騙されようとして生まれたものであるようだ、この多くの物語の中に、真実はきわめて少ないであろうに、)
と、物語というものが、真実(事実)とは懸け離れたものであることを言っているのである。
こういう認識は、源為憲や光源氏といった男性側からのものという共通項があるものの、男性女性に限らず、当時の「大人」の大方の認識でもあった(そのことは『蜻蛉日記』や『更級日記』からも明白なことである)。しかし、幼児期より筑紫で育ち、上京後、六条院に住む玉鬘は、そこにある「物語」や「物語絵」に夢中になっているのである。これは無理からぬことで、鄙で成長した玉鬘にすれば、六条院というこの国最高の権門勢家にある「物語」は、生まれて初めて目にする夢のような世界だったのである。
彼女は、源氏の発言がむろん面白いはずはなく、敢然と反撥する姿勢を示すのだが、その反撥ぶりに驚いた源氏は、ある重大な言葉を発するに至る。
それは、次に記す言葉なのだが、端的に言えば、驚くべき(と言っていいだろう)「物語」への「評価」であった。
こちなくも聞こえおとしてけるかな。神代より世にあることを、記しおきけるななり。日本紀などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しくくはしきことはあらめ
(ぶしつけにも悪く申したことよ。物語は、神代の昔からこの世に起こったことを、書き留めておいたものであるようだ。日本の正史などは物事の片側だけを記したものよ、物語にこそ正しく詳細なことは記されているであろう)
この言葉を発するすぐ前には、源氏は、物語について「まことはいと少なからむを」(本当のことはまったく少ないであろうに)と言い、さらには、「すずろごと」(つまらないもの)、「いつはりども」などと言っている。つまり、基本的には『三宝絵詞』の物語観と同じだと言っていい。
やや唐突に出てきた感は否めないが、しかしながら、この源氏の言葉は、『三宝絵詞』に言うような、当時流行していた「物語」一般に見られる性質のものとは、明らかに異質のものと言うほかはないのではないか。むろん、玉鬘への安直な追従の言葉であるはずもなく、それでは源氏は、いったいどのような認識からこの言葉を放ったのであろうか。
さらに言うならば、この言葉は、これを源氏に言わしめた作者紫式部自身の認識そのものから発せられたものなのでもあって、この認識が、当時流行していた物語の在り方とは、大きく乖離していることの意味を考えねばならないだろう。
この稿続く
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