-源氏物語講話-
第40回
紫式部の「清少納言批判」(一)
はじめに―ある懺悔
この稿を草するに当たって、私は、ある懺悔の思いから始めなければならない。この思いは、長かった教師人生の中で、あるいは、最も恥ずべき部類の一つかもしれない。
もうかなり昔のことである。私のゼミ生の中で、一人の男子学生が『源氏物語』について卒業論文を提出したのだが、その論文の主旨は、『源氏物語』と『枕草子』との比較研究だったような記憶がある。今となってははなはだ曖昧な記憶なのだが、ただ明確に覚えていることは、卒論の面接時に、彼が、紫式部が『枕草子』を読んでいる、というようなことを言ったのである。私は、すぐさま、その読んだという証拠は示せるのか、というようなことを質問したと思う。意地悪と言えば、これほど意地悪な質問はなく、今でも、困惑して何も答えられずに窮していた彼の表情が目に浮かぶ。
今から思えば、文献に書かれていないことを根拠として示すことなど、学術論文ではあってはならないことであって、実証できないことには触れてはならない、というような風潮が学界にはあったのである。私の恩師もまた、学生を指導する際の言葉として、そんなことがどこに書いてある、と厳しく突き放すのが決まり文句であって、私どもは、この「実証」という壁に何度も行く手を阻まれたのである。
その頃の私が、つい「そんなことがどこに書いてある?」というような言葉を冷たく言い放ったとしても、それは当時の学的風潮を反映したものであろうから、やむを得ないと言えばやむを得ないことではあるが、やはり、その学生には申し訳ないことをしたという思いが、その後、小さく刺さった棘のように、私の胸には残り続けた。
記憶としては前後するのだが、おそらく、私も、漠然とした思いではあるが、紫式部は『枕草子』を読んでいたか、あるいは、その中身については、ある程度知っていたのではないかと思うようになっていた。それは、「夕顔」巻について、あるところで発表する機会を得た時のことと無縁ではない。
当時の「夕顔」という言葉の辞書的な意味は、文字どおり、辞書を見ればわかることだが、それは、今言うところの「干瓢」の実のイメージが先に立つ言葉であった。花としては、白い地味なもので、何よりも、夕暮れから咲き始めて朝方には萎んでしまう花であったから、これ以上目立たない花はなかったであろう。さらにまた、この言葉が『萬葉集』に詠われた例がないということも、いかに文芸の世界には不似合な花であったかを物語るものであろう。
そういう地味な花の名を『源氏物語』の巻名に用いた紫式部は、何といっても勇気のある人であるとともに、とにかく偉い人だという思いを強くしたのである。というのも、実は、この地味な夕顔の花こそ、「夕顔」巻のヒロイン(夕顔)に付与された強烈なイメージであったからであるが、だからこそ、そういう地味な言葉を巻名に用いた紫式部という人に、私は感動したのであった。
ただし、この「夕顔」という言葉を、初めてこの国の文芸の歴史に位置づけたのは、紫式部ではなく清少納言であったことは動かない。つまり、清少納言の『枕草子』が、「夕顔」という言葉の、日本の文芸作品における初出ということになるのである。そして、よくよく考えるならば、この地味な「夕顔」の花に、初めて光を当てた人物は清少納言なのであって、『源氏物語』の「夕顔」巻と『枕草子』の「夕顔」についての叙述を比較対照することで、そのあたりの機微というものは、実は微妙に浮かび上がることになると思われる。
私は、いったい何を言いたいのか、ということなのだが、それは、「夕顔」巻というものは、『枕草子』の「夕顔」についての叙述を承けた結果のもの、あるいは、大きく影響を受けたに違いない、と思わざるを得ないということなのである。この思いは、ほぼ確信と言うに近いものがある。
さらに言えば、紫式部は、『枕草子』をたんに読んでいた、ということにとどまらず、『源氏物語』という稀代の物語作品は、むしろそれへの正面からの批判でもあったに違いない。そういうことを、これから述べてゆきたいと思う。また本稿は、あの時の学生への懺悔であるとともに、真摯な回答としてもあることを申し添えたい。
この稿続く
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