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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-源氏物語講話-

第42回
大い君の死について(二十二)―中の君の結婚(1)


「中の君」から「中の宮」へ―呼称の変化

八の宮の死後、「忌(いみ)」に籠っていた姫君たちであったが、それも明けた9月20日過ぎに、匂宮からやや長めの手紙が届く。匂宮は、すでに弔問の手紙を度々宇治に送っていたことが直前の叙述からわかるが、宇治からの返信はなかったのであった。その匂宮の手紙の一部が、和歌とともに紹介されるくだりである。

御忌も果てぬ。限りあれば、涙も隙もやとおぼしやりて、いと多く書き続けたまへり。時雨がちなる夕つかた、

「牡鹿鳴く秋の山里いかならむ小萩が露のかかる夕暮れ

ただ今の空のけしきをおぼし知らぬ顔ならむも、あまり心づきなくこそあるべけれ、枯れゆく野辺も、分きてながめらるるころになむ」

(御忌籠りも終わった。ものには限度というものがあるので、姫君たちの涙も乾く折もあろうかと思いやりなさって、お手紙にはたくさんの言葉を書き連ねなさった。時雨がしきりに降る夕暮れ方に、

「牡鹿が妻を求めて鳴く秋の山里の寂しさはいかばかりでありましょうか、小萩に露がこぼれかかるこのような夕暮れには

今この時の空の物悲しい佇まいをお分かりでないようなふりをなさるのでしたら、それはあまりにもひどいなさりようというものでしょう、しだいに枯れてゆく野辺の様子も、とりわけ物悲しく眺められる頃でございましょう」)

ここに示される匂宮の手紙は、二人の姫君のうちのどちらに差し出したのかということは分からない。これは八の宮の遺児への弔問としての手紙であるから、二人の姫君へ宛てた手紙ということになろう。ただし、問題は、この匂宮の手紙に対する姫君たちの反応である。特に大い君について、物語は、次のように言う。

「げに、いとあまり思ひ知らぬやうにてたびたびになりぬるを、なほ聞こえたまへ」など、中の宮を、例の、そそのかして、書かせたてたまつりたまふ。

(「たしかに、たいそうあまりにも情趣を理解しないような態度で何度も過ぎてしまったので、やはりご返事申し上げなさいませ」などと言って、中の宮を、いつものように、催促して、ご返事を書かせ申し上げなさる)

この大い君の言動には注意しなくてはなるまい。大い君は、中の君に対して「なほ聞こえたまへ」と言っているのである。これは、前述したように、宇治の姫君たちに宛てた手紙であるが、その返書については、中の君が応えるという暗黙の了解があったものと思われる。これは、かつて最初に寄せられた匂宮からの手紙に対して、中の君が応えるように、という八の宮の勧めに起因している。

中の君が選ばれたことについては、特に明確な理由が示されていたわけではないが、八の宮は、確かに、中の君に返信を勧めたのであった。そして、このことを起点として、匂宮と中の君との物語は展開してゆくのである。それは、あたかも人生は緻密な計算によって成り立つものではなく、偶然の積み重ねによって成り立つものであるという哲理に基づいているかのごとくである。このあたりの物語展開を丁寧になぞってゆけば、匂宮と中の君との結婚という図式を、作者は、すでに周到に描いていたものと思わざるを得ない。

大い君の言葉に続く地の文、「中の宮を、例の、そそのかして、書かせたてたまつりたまふ」に見られる「中の宮」という呼称もまた、そのことの一環としてあるのではないか。一部の伝本には「中の君」という呼称が見られるが、むろん、本文処理としては「中の宮」であること動かない。

諸注が指摘するように、今まで「中の君」と呼ばれていた人が、これ以降「中の宮」と呼ばれることになるのである。これは、明らかに、物語における「中の君」への待遇が厚くなった、ということなのであって、このことは、やがて匂宮の妻(宮家の女主人)となって二条院に住む人であることを意識した言い方と考えざるを得ない。

匂宮と「中の君」との結婚への展開は、取りも直さず、薫と「大い君」との恋物語の前提ともなる条件であったと言えよう。

この稿続く

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