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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-源氏物語講話-

第48回
「六条御息所」考―鎮魂として(七)―「六条わたりの女君」から「六条御息所」へ


こうして「六条御息所」は登場した

「夕顔」以降、「若紫」「末摘花」「紅葉賀」「花宴」「葵」と、この物語は時系列の巻序によって展開している。周知のことと思われるが、六条御息所の初めての登場は、「夕顔」巻と言うことができる。しかし、その時点では、作者はまだその女君が誰であるかを明かしていないのである。

あくまでも印象付けられるのは、「六条わたり」という言葉なのであって(「紅葉賀」「花宴」では話題として出てこない)、「葵」巻に至るまでのこの話題の触れ方は、「六条わたり」や「六条京極」に住む女君として、徐々にその輪郭が明らかになってゆくだけと言っていい。そして、それらの話題は、やがてベールを脱ぐように明らかになる「葵」巻の「六条御息所」への見事な伏線となっていたのである。

そのことは、たとえば、「夕顔」巻の「なにがしの院」で夕顔を襲った魔性の女が、明確な根拠たるものは示されないものの、それが「六条わたり」の女君ではないか、と読者がイメージするに十分な描写になっていることからもわかるであろう。むろん、その時は、起点としての「夕顔」巻の「六条わたり」の女君のイメージの範囲内にとどまるのであって、けっして「六条御息所」ということではなかった。ところが、「葵」巻の巻頭近くで明らかにされる次の一文は、まさに、「六条御息所」と呼ばれる女君の登場と言っていいのであり、それは、真相を暴露するおもしろさだけではなく、驚愕と言うに近いものがあるのである。

まことや、かの六条の御息所の御腹(おんはら)の前坊(せんばう)の姫宮、斎宮(さいくう)にゐたまひにしかば、大将の御心ばへもいとたのもしげなきを、幼き御ありさまのうしろめたさにことつけて、下りやしなましと、かねてより思しけり。

(それはそうと、あの六条御息所がお産みになられた前皇太子の姫宮が、伊勢の斎宮にお決まりになったので、源氏の大将のご愛情もまことにあてにできないので、幼い斎宮のご様子が心配なことにかこつけて、自分も伊勢へ下ってしまおうかと、前々からお考えになっていた。)

巻頭で、桐壺帝譲位のことを述べた後に続く一文だが、ここで示される事実は重大なものであった。「まことや」と話題を大きく転じた直後、「かの六条の御息所の御腹の前坊の姫宮」が「斎宮」に占定されたことを告げるのだが、そこに「かの」という語り手(作者)と聞き手(読者)の共通の認識に基づく語が用いられているのである。つまり、この「かの」とは、「夕顔」巻の「六条わたり」、「若紫」巻の「六条京極わたり」、「末摘花」巻の「六条わたり」などとあったところの女君を指すのは自明であって、その女君が、実は「六条の御息所」であった、というのである。しかも、ここでは「御息所」と呼ぶ理由も明らかにされている。それは、「前坊の姫宮」の母であった、ということである。

この「前坊」は、前皇太子、ということで、直後の桐壺院の言葉において「故宮」と呼ばれていることから、すでに故人となっていることが分かる。さらに、同じ巻の後文で、「故前坊の、同じき御はらから」と述べられていることにより、この人物が桐壺院の同腹の弟君であったことが分かるのである。となると、おそらく、桐壺帝即位に伴って立太子、そして、皇太子のまま死去した人物であると、ほぼ断定的に言っていいことになるのである。

実は、このことが、「桐壺」巻前半での皇太子不在の事情、また、それに伴う弘徽殿女御所生の第一皇子(後の朱雀帝)と桐壺更衣所生の第二皇子(後の光源氏)との立太子争いの可能性を孕む物語的緊張などが生じ得たということになるのであった。こういったことの事情、もしくは、謎とでも言うべきものが、今ようやく氷解することとなった、と言えるのではあるまいか。作者の長編構想の緻密さに、我々は深く思いを致すべきであろう。

さらに言えば、この長編構想のなかに、「葵」巻の劇的な物語展開が、すでに内包されているのであった。

この稿続く



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