-源氏物語講話-
第49回
紫式部の「清少納言批判」(二)―清少納言と紫式部との関係(一)
二人に面識はあったか?
言うまでもなく、清少納言と紫式部は、一条天皇(在位:986-1011)の二人の后(藤原定子・藤原彰子)にそれぞれ仕えた女房である。したがって、ごく大雑把に言えば、二人は同じ時代の同じ後宮内の人であったということになる。
藤原定子は、藤原北家の氏の長者であった関白道隆の娘であり、藤原彰子は、その道隆の弟である道長の娘であった。血縁ということでは、二人は従姉妹の間柄になる。
道隆薨去(995年)の翌年(996年)、道長は代わって氏の長者となり、その後、権力を恣にした。道隆と道長とは、年齢差が一回り以上あったことに伴い、それぞれの娘である定子と彰子との年齢差も大きかった。同じ人物(一条天皇)を夫としたとはいえ、両者の直接的な関わりはさほど深くはなかったと言える。以下、定子と彰子、さらに、清少納言と紫式部との関係を考えるべく、簡略な小年譜を重ねて掲げてみよう。
藤原定子・清少納言小年譜
藤原彰子・紫式部小年譜
見て明らかなように、同じ一条天皇の后とはいえ、定子と彰子とは、その入内時には、十年近い時間差がある。彰子の入内時、定子は、大内裏の「職の御曹司」と里邸代わりとした大進平生昌邸とに居住していたから、後宮十二殿舎内の藤壺に居住する彰子とは、まず顔を合わせることはなかったであろう。そして、彰子入内の翌年、定子は崩御するのである。
このように、二人が后として重なる時期はわずかであって、それも、ただ「后位」としての観念上の重なりに過ぎなかった。まさに、接点の生じようのない両者の関係であった。
仕えるところの主君が、空間的にも、時間的にも、現実のこととして重なることがほとんどなかったというのであれば、それぞれに仕える女房たちもまた、その接点というものは発生しなかったに違いない。さらに、紫式部に限って言うならば、その初出仕の時(1006年としたが、1007年とも)が、彰子入内の年よりも七年遅く、皇后定子が崩御してから六年後のことなのである。清少納言と紫式部との接点は、その可能性を想定することの方が難しい。
なお、清少納言関連の書物に、定子崩御後に彰子後宮に仕えたのでないか、というような記述を見かけることがあるが、現存の歴史資料、また、清少納言に関する伝承等に鑑みるに、これはあり得ない推測である。事実として残るデータを丁寧に見る限り、二人に面識はなかった、と断定するほかはない。