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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-源氏物語講話-

第50回
紫式部の「清少納言批判」(二)―清少納言と紫式部との関係(二)


『紫式部日記』の清少納言批判をどう考えるか

前稿において、紫式部と清少納言とは面識などあるはずがない、というようなことを述べた。この見方は動かない。だから、たとえば、この二人が宮中の渡殿などですれ違った際に、つんけんした態度を取ったり、罵倒し合ったり、などと想像するのは、おもしろい場面ではあっても、ただのフィクションということになる。

そもそも、当人のことを知らない人間が、その当人のことを、良くも悪くもとやかく言うことはあり得ないであろう。しかしながら、『紫式部日記』では、紫式部は、清少納言のことを激しく批判しているのは周知の事実である。

その人物とは会ったことのない人物が、その人物を激しく批判する。この一見矛盾するかのような事態は、しかし、よく考えてみれば、我々の人生や生活において、実はたやすく発生している。それは、直接の面識はなくとも、何らかの間接的な関係(媒体)を経て、当の人物を知り得た時である。

紫式部と清少納言の場合は、紫式部の初出仕の時点(1006年と見ておく)において、すでに『枕草子』は成立し、かつ宮廷社会では流布していたであろうから、『枕草子』という作品を媒体として、あるいは、彼女の評判などで、紫式部は、清少納言を間接的に知り得る立場にあったと言っていい。

次に、『紫式部日記』の当該のくだりを検討してみよう。

清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごう、すずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、 いかでかはよく侍らむ。

(清少納言は、得意顔でたいそうな勢いでいましたそうな人。それほどまでに利巧ぶって、漢字を書き散らしていますのも、よく見れば、まだとても未熟なことが多い。このように、人より優れていようと思いたがる人は、必ず失望し、その将来はただ嫌なことばかりになりますので、風流を気取ってしまう人は、ひどく興ざめで、何でもなく意味のない時も、物事の風趣を求め、素敵だと思う事も見逃さないうちに、自然と、あってはならぬつまらない状態になるに違いないでしょう。そのつまらないことになってしまった人の末路など、どうしていいことがありましょうか、いいはずはありません)

細かい指摘になるが、当該の表現について検討してみたい。まず、冒頭の、「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人」という表現である。この箇所の前では、紫式部は多くの女房を取り上げ批評しているが、それらは基本的に、彰子後宮に属する女房であった。したがって、定子後宮に属する清少納言に言及するのは、異例のことと言っていい。

二人の間に面識がないことはすでに述べた通りだが、しかし、紫式部にとって、清少納言という女房の存在は、むろん既知のことではあったろう。長保2年(1000)暮れの定子崩御の後、清少納言は身を辞したものと思われるが、『枕草子』とその作者名とは、依然として宮中内に残り続けたと思われるからである。

つまり、寛弘3年(1006)頃に出仕したと推定される紫式部にとって、清少納言のことは伝聞の域を出なかったのである。そういった気持が、「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人」と、間接体験の回想を表す助動詞「けり」が用いられた要因なのではないか。間接的に聞くところの清少納言の評判と、当時おそらく流布し始めていたであろう『枕草子』の存在とは、紫式部にとって、ほとんど許しがたい内容だった、と推測するほかない。

たとえば、「さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり」とは、『枕草子』内部の漢詩文の引用箇所についてその未熟さを指摘したものと思われるが、「よく見れば」という記述こそ、紫式部がこの作品を読んだことの証左となるであろう。

また、「行末うたてのみはべれば」や「そのあだになりぬる人の果て」などという表現は、宮中を去った後の清少納言の落魄ぶりを念頭に置いたものであって、これらの記述が少なくとも寛弘5年(1008)以降にかかるものであることを考えるならば、もはや石もて追うほどの辛辣さであったと言えよう。

本稿では、表題として「清少納言と紫式部との関係」と掲げたが、その関係とは、両者に直接の面識がない以上、宮中内に残り続けた清少納言の風評と『枕草子』の内容とが、かくも激しい紫式部の辛辣な批判を招くこととなった、としか言いようがない、そういった両者の関係であったと言うことができるのである。



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