-源氏物語講話-
第51回
大い君の死について(二十四)―中の君の結婚(3)
八の宮没後のこと
生前の八の宮の心痛は、八の宮一家の生活のことであった。自分が生きている間はまだいい、死後を考えると、二人の姫君のことが気になってならない、ということは、仏教的に言えば、執心であり、いかにこの執心から逃れるか、ということが、最大にして最後のテーマではあった。
その解決の鍵となるのが、後見、あるいは結婚ということであり、具体的に言えば、薫の存在であったろう。しかし、八の宮は、薫に二人の姫君の経済的支援は依頼したものの、結婚のことについては、具体的に話を進めた痕跡はなかったのである。これは、八の宮が、自身の死について、「昨日今日とは」思わなかったことに起因しているが、やはり、安易に姫君たちの結婚を進められないという「宮家」のプライドもあったのであろう。
しかし、死は、いつかは、かならず、しかもほとんどの場合は、予告なしに訪れる。「椎本」巻で、八の宮の突然の死を描いた作者は、次に否応なく訪れる事態を、書き継がねばならない。それが、次巻の「総角」巻ということになろう。
ただ、その前に確認しておきたいのは、「椎本」の巻末近く、薫は、大い君に、匂宮が中の君に心を寄せていることを話し、さらに、自身は、大い君への求婚の意思をほのめかしたことだろう。つまり、この時点で、匂宮と中の君との関係の固定化がなされ、必然的に、薫は大い君、という図式が確立したことだろう。物語の進行は、ある意味で、落ち着くべきところへ落ち着いた、ということになる。
そして、「椎本」巻末、作者は、再び、二人の姫君に対する薫の垣間見の場面を用意した。すなわち、姫君たちの「垣間見」の場面を承けて、「総角」巻へと展開してゆくのである。言うまでもなく、「垣間見」とは「恋」の導火線に火が点けられるようなものであり、薫の恋の進展という次巻への決定的な予告ともなった。
「総角」巻へ
「総角」巻は、まず八の宮の一周忌法要の準備から開始される。巻名の「総角(あげまき)」という言葉は、むろん、これから始まる物語世界と無関係ではあり得ない。この当時「総角」という語彙は、少女などの結髪のかたちや、それに似た紐の結び方を表すことが一般的であった。巻頭近くに示される薫から大い君への贈歌も、法要のため、姫君たちが経の飾り糸を総角結びにしているところへ、八の宮の一周忌のため宇治を訪れた薫が詠み入れた歌であった。
あげまきに長き契りをむすびこめ同じところによりもあはなむ
(総角結びのように、末長い契りを一つ所に結び合わして、私はあなたと一緒になりたいものです)
比較的早い段階で、巻名の「総角」の種明かしがされたわけだが、この歌の下の句「同じところによりもあはなむ」において、薫は、大い君に、単刀直入に求婚した、と言える。
この歌を、薫は、御簾の中の大い君に見せるのだが、その時の大い君の反応が、
例の、と、うるさけれど、
(いつものことで、と、厄介に思われるが、)
と記されていることに注意したい。薫からの贈歌の行為そのものが「うるさけれど」なのではあるまい。下の句の「同じところによりもあはなむ」という内容に対する大い君の「うるさし」という感情なのであろう。つまり、薫からの「求婚」の意思表明に対する大い君の反応なのである。物語に書かれている限りでは、この和歌を含めて、薫は、二回ほど大い君に求婚の意思を表したと言えよう。大い君は、返歌として、次の歌を示した。
ぬきもあへずもろき涙の玉の緒に長き契りをいかがむすばむ
(貫いて止めることもできない、はかない涙の玉の緒のような私ですのに、末長い契りなど、どうして結ぶことができましょう)
求愛の歌に対して、このようにその主旨をはぐらかすような返し方は、一般的に言えば、必ずしも拒絶ということを意味するものではないが、大い君はともかく、薫という「まめ人」は、恋の駆け引きなど思いもよらぬことであって、事の進展はそう簡単には望めまい。
ただし、「読者」は、どうであったであろう。「総角」という言葉からは、この当時、もう一つの世界が展開したと思われる。「読者」とは、言うまでもなく、彰子とその側近に仕える作者とは同僚の女房たちであった。
この時、この物語の「読者」たちが思い浮かべた世界とは、「催馬楽」の「総角」であったことは動かない。
この稿続く