-源氏物語講話-
第55回
紫式部の「清少納言批判」―『源氏物語』と『枕草子』の対照性(二)
紫式部の「物語」論
『三宝絵詞』で取り上げられている「物語」についての認識は、基本的に『源氏物語』でも同じようなことが示されている。なかでも、螢巻での物語論は、作者が、詳細に、かつ正面から、当時の物語一般を取り上げたものとして注目していい。
ここで語られる物語論は、光源氏が、玉鬘や紫の上に語る体裁を取っているところに特色があり、つまりは、最上流階級の男性貴族からの物語観なのである。そういう意味では、最上流というわけではないが、『三宝絵詞』の源為憲と同じ立場と言っていい。したがって、読めばすぐわかるように、光源氏の物語観は、源為憲のそれとほぼ同じなのである。
ただ、光源氏は、物語の熱烈なファンである玉鬘の真剣な反撃にあって、思わず物語擁護の姿勢に転ずる。この時に、光源氏が、思わず漏らす、下記の言葉は、いかにも玉鬘へのご機嫌取りのように見せてはいるが、これは、紫式部自身による『源氏物語』の作品解説でもある。堂々たる自負に基づくものだが、このことについては、今はいったん措く。
「日本紀などは、ただかたそばぞかし、これらにこそ道々しく、くはしきことあらめ」
(六国史などは、ただ片側だけのことだよ、これらの物語こそ正しく、詳しいことがあ 描かれているであろう)
紫式部が託した光源氏による当時の物語一般に関する解説的弁を読むと、それが現在の映画やテレビでドラマとして制作されている娯楽作品の論理と変わらないことがよくわかる。たとえば、物語では善と悪で対照的なキャラクターが登場し、勧善懲悪の過程でそれらを極端に強調し過ぎるところはあるものの、つまるところは、人の世の人間の有り様に変わらない、と述べるところや、また、ストーリーの息詰まるような展開には、最初読む時ははらはらどきどきするものの、二度目に読む時は、それほどでもない、などと言うところは、この作者が、いかに当時の「物語作品」に親しんでいたかを物語るものであろう。
つまるところ、物語は、今日で言うエンターテインメントドラマと同じであって、日々の無聊を慰め、退屈な生活に刺激と楽しみを与えるものであった。だからこそ、王朝貴族社会の姫君たちの「つれづれ」を慰める手段として、物語が取り沙汰されるのである。そして、こういった物語のエンターテインメントを彩る主人公が、たとえば絶世の美女であり、あるいは最高の貴公子であったことは当然のことである。
貴族社会の少女たちが夢中になった「恋」の物語も、今日のそれと大差あるまい。理想的な男女両主人公が登場し、奇跡的な出逢いを経て、二人は恋に陥るのである。その恋の成就にあたっては、困難な出来事が出来するのであるが、その危機を解決し、二人はやがてめでたくゴールを迎えるというストーリーである。
こうした物語に夢中になった読者の一人として、たしかに紫式部がいるわけだが、しかし、「螢」巻で述べられる「物語」論からは、その姿勢が実に冷静であることがわかるであろう。「物語」というものを知的に分析する紫式部に対して、清少納言ははたしてどうだったのか。