-伊勢物語論のための草稿的ノート-
第5回
『伊勢物語』の成立を考える(二)
『伊勢物語』の時代設定―
『源氏物語』「絵合」巻は、歴史上の「天徳4年内裏歌合」をその結構のモデルとしている。時制としては、明確に西暦960年であって、その時代認識として「絵合」巻の記述はある。その認識の一つとして、『伊勢物語』の成立は古い、というものがあるのである。ただし、その成立の時点は業平の没年(880)以前ということはあり得ないが、この成立時期は、もう少し詰めることが可能である。
『伊勢物語』を虚心に読めばすぐに分かることだが、この物語の主人公は、実在の業平一人格だけでは収まらない。つまり、主人公像は実在の業平だけではなく、多様化され、さらに拡大されていると言うことができるのである。つまり、登場する主人公は「昔男」として拡大形象され、それに伴って、その生涯は、業平の実際の生涯(825~880)よりも拡大されているのである。
この物語の時代設定の上限と下限とは、実は、きちんと提示されている。すなわち上限は、初段を受けた2段の「奈良の京は離れ、この京は人の家まだ定まらざりける時」という記述である。諸注が指摘するように、ここは、むろん平安京の初期という時代設定である。漠然とした言い方ではあるが、794年の平安京遷都からそうかけ離れていない時期ということである。在原業平は、825年の出生であるから、生年じたいは平安京の初期と、かつがつ言えなくもないが、2段の直前にある初段の主人公は、「初冠」の若者、つまり新成人なのであって、誕生後、10年以上の経過が考えられることから、やはり、業平の実人生よりは遡っている設定としなくてはならない。実際の業平個人ということなら、その新成人の時期は、840年前後ということになるからである。
さらに、下限の設定について考えてみよう。業平の没年は880年であるが、この物語の時代設定は、それよりもさらに拡大されている。下限の提示は、114段の「仁和の帝、芹河に行幸したまひける時」という記述がそれである。「仁和の帝」とは、光孝天皇(在位:884~887)であり、その芹河行幸とは、仁和2年(886)12月14日のことである。この時のことは、『三代実録』の仁和2年12月14日の条に詳細な記載がある。また、この時に詠まれた和歌と して、『後撰集』「巻15」に、この114段の歌が収載されているが、詠者は在原行平である。これが史実であって、仁和2年(886)12月14日の「芹河行幸」の時点、業平はすでに没している。つまり、114段は、行平を主人公の「翁」のモデルとすることで、あきらかに、この物語の主人公の生涯は業平の 実人生から拡大されているのである。このあたり、『伊勢物語』が、「昔、在原業平ありけり」ではなくて、「昔、男ありけり」となっている所以なのであるのだが、このことは、『伊勢物語』の本質に深く関わることであって、そのうち正面から論述することになる。
このように「伊勢物語」の時代設定は、平安京の初期から光孝天皇の仁和2年(886)以降間もない頃までという設定である。114段の仁和2年の時点で「翁」と称される主人公が、やがて、最終章段125段で死を迎えるのであるから、おおよそ、この物語の時間設定は、800年代、9世紀のことに掛かるものであることがわかるであろう。すなわち、『伊勢物語』という物語は、9世紀を生きた人々の物語に他ならないのだ。
そして、その成立とは、9世紀を終えた時点を目処に考えていかなければならないのであって、とすれば、延喜5年(905)の成立である『古今集』の存在を避けては通れないのだ。