-伊勢物語論のための草稿的ノート-
第7回
『伊勢物語』の成立を考える(二)『伊勢物語』の時代設定(実名章段のこと)―
43段― | 「むかし、賀陽の親王と申す親王おはしましけり」 |
「賀陽の親王」とは、桓武天皇第7皇子、793(延暦12)年の出生で871(貞観13)年10月8日に薨去、享年78であった。物語は、「その親王、女 をおぼしめして」とあるので、その老年時代という趣ではないが、正確にはわからない。しかし、少なくとも871(貞観13)年以前の物語であることは間違 いない。
65段― | 「水の尾の御時なるべし。大御息所も染殿の后なり。五条の后とも。」 |
「水の尾の御時」とは、清和天皇の時代ということで、その在位期間は、858(天安2)年から876(貞観18)年まで。譲位後、水尾に隠棲したのでこの 名がある。「染殿の后」とは、藤原良房の娘の明子、文徳天皇の女御で清和天皇の母である。また「五条の后」は、藤原冬嗣の娘の順子、仁明天皇の女御で文徳 天皇の生母である。いずれにしても、65段の物語の時代設定は、清和天皇の時代(858(天安2)年~876(貞観18)年)ということである。
69段― | 「斎宮は、水の尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹」 |
「水の尾の御時」の「斎宮」とは、まさに「文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹」である「恬子内親王」のこと、その斎宮としての在位期間は、859(貞観元)年から876(貞観18)年までのことであった。
76段― | 「むかし、二条の后の、春宮の御息所と申しける時」 |
紀有常(815~877)は、紀名虎の子。文徳天皇の后で惟喬親王の母・静子の兄である。
77段― | 「むかし、田邑の帝と申す帝おはしましけり。その時の女御、多可幾子と申す、みまそかりけり。それうせたまひて、安祥寺にてみわざしけり。」 |
78段― | 「むかし、多可幾子と申す女御おはしましけり。うせ給ひて七七日のみわざ、安祥寺にてしけり。」 |
「田邑の帝」とは、文徳天皇であり、その時の女御であった「多可幾子」が亡くなったというのである。多可幾子は、藤原良房の弟の良相の第一女、858(天 安2)年11月14日に亡くなっている。「安祥寺にてみわざ」とは、49日の法要のことであって、その日がいつであったのか記録はないが、契沖は翌年の1 月のことであろうとする。
82段― | 「むかし、惟喬親王と申す親王おはしましけり。」 |
83段― | 「むかし、水無瀬に通ひ給ひし惟喬の親王、例の狩しにおはします供に、馬の頭なる翁仕うまつれり。(中略)かくしつつ仕うまつりけるを、思ひのほかに、御髪おろし給うてけり。」 |
「惟喬親王」とは、文徳天皇の第一皇子で、母は紀名虎の娘静子。844(承和11)年に生まれ、897(寛平9)年、54歳で亡くなっている。83段に 「御髪おろし給うてけり」とあるように、872(貞観14)年に出家した。従って、83段の後半部分は、873(貞観15)年の正月のことであったと思わ れる。
95段― | 「むかし、二条の后に仕うまつる男ありけり。」 |
「二条后」は3段に既出しているが、ここは、その「后」としの在位期間を確認しておけばいいだろう。高子が「女御」となったのが、866(貞観8)年、皇 太后の称の停廃が896(寛平8)年であるから、「后」在位期間は、866(貞観8)年から896(寛平8)年までのこととなる。
97段― | 「むかし、堀川の大臣と申す、いまそかりけり。四十の賀、九条の家にてせられける日」 |
「堀川の大臣」とは、藤原基経(836~891)のこと。その「四十の賀」は、875(貞観17)年のことである。
「在原行平」は「在原業平」の兄だが、その「左兵衛の督」としての時期は、864(貞観6)年から873(貞観15)年までのことである。
また「藤原良近」は、875(貞観17)年、53歳で卒去、業平よりは2歳年長になる。良近が「左中弁」であったのは、874(貞観16)年のことであっ たので、厳密に言えば、行平の「左兵衛の督」時代とは1年の誤差があるが、回想としての物語の記述では、ほとんど問題とはならない。
107段― | 「むかし、あてなる男ありけり。その男のもとなりける人を、内記にありける藤原の敏行といふ人よばひけり。」 |
「藤原の敏行」とは、『古今集』を代表する歌人の一人。907(延喜7)年の卒去と言われるが、詳細は不明。ただ、その「内記」であった時代は、 866(貞観8)年から蔵人に転ずる871(貞観13)年までのことであった。物語の内容からして、敏行の青春時代のことである。
114段― | 「むかし、仁和の帝、芹河に行幸したまひける時」 |
「仁和の帝」とは光孝天皇のこと。その「芹河行幸」は886(仁和2)年12月14日のことである。
このように、『伊勢物語』という作品は、明らかに、9世紀という時間を射程している。ありていに言えば、この物語は、9世紀(800年代)を生きた人々の物語であると言うことができる。その中心に「在原業平」という人物がいるのである。
この国の歴史にとって「9世紀という時代」はどのような時代であったのか、その意味するところを考えていかなければならないのだ。