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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第24回
第二段の主人公―「業平」と「まめ男」(3)

 

『日本三代実録』「卒伝」

第二段は、主人公が「まめ男」と呼ばれ、さらに、その「男」が史上実在の「在原業平」を示唆することは周知の事実である。しかし、史上実在の在原業平が、『古今集』当時、「まめ男」というイメージで捉えられていたかということになると、その判断はなかなか難しい。この当時の業平のイメージは、むしろその逆だというイメージがあるからである。

たとえば、『日本三代実録』に、業平の「卒伝」がある。ここではその一部を載せてみよう。

業平、体貌閑麗、放縦不拘、略無才学、善作倭歌。
(業平、体貌ハ閑麗ナリ、放縦ニシテ拘ラズ、略ソ才学無シ、善ク倭歌ヲ作ル)
(業平は、容姿端麗で、自由奔放、恣に振る舞う。漢学にはほとんど通じていないが、見事に和歌を作る)

このくだりからは、業平のイメージが明確に伝わってくるであろう。「体貌閑麗」とは、その容姿容貌が雅やかで麗しいということであり、王朝の貴公子としてまことにふさわしい。そして、その次の「放縦不拘(ほうしょうニシテかかわらズ)」はどうであろうか。意は、わがままで自由奔放、恣にふるまうさまを指している。

「恋」とは、「片思い」の段階はともかくとして、行き着くところ、ある意味では、自分の心に正直に生きることが求められるであろうから、この「放縦不拘」という言辞は、「恋」に生きた業平に捧げられるものとして、まことにふさわしい。

さらに言えば、次に続く「略無才学、善作倭歌」という表現も、“恋の人、業平”にふさわしいものと言わなければならない。

「才学」なく「倭歌」を作る、と「業平」のことを言うのであれば、『古今和歌集』の時代的特徴について、触れねばならないであろう。

 

『古今集』「両序」(仮名序・真名序)

延喜五年(905)華々しく〝和歌の時代〟の到来を宣言した『古今和歌集』は、周知のとおり、「仮名序」と「真名序」の二つの「序」を有している。そして、両序は、「倭歌」の歴史について明快な叙述を示していることで注目されねばならないが、その中で、「仮名序」にある次のくだりは、和歌の隆盛期「いにしへ」から見た「今の世の中」、すなわち、平安京遷都後(九世紀)の和歌のあり方について述べたものと思われる。

今の世の中、色につき、人の心花になりにけるにより、あだなる歌、はかなき言のみ出でくれば、色好みの家に埋もれ木の人知れぬこととなりて、まめなる所には花薄穂に出すべきことにもあらずなりにたり。
(この平安京の時代は、社会も華やかになり、人の心もそれに伴って浮かれるようになったので、うわべだけの歌や実のない歌ばかりが作られるようになり、その結果、歌は恋の世界に閉じこもってしまい、それ以外の多くの人々には知られることもなくなり、歌は公の場にはほとんど出すことができないものとなったのである)

この「仮名序」の叙述とほぼ同じ内容を述べている「真名序」の当該箇所は次のとおりである。

 

及彼時変澆漓、人貴奢淫、浮詞雲興、艶流泉涌、其実皆落、其花孤栄。至好色之家、以之為花鳥之使、乞食之客、以之為活計之謀、故半為婦人之右、難進大夫之前。
(彼ノ時澆漓ニ変ジ、人奢淫ヲ貴ブニ及ビテ、浮詞雲ト興リ、艶流泉ト湧ク。其ノ実皆落チ、其ノ花孤リ栄ユ。好色之家、之ヲ以テ花鳥之使ト為シ、乞食之客、之ヲ以テ活計之謀ト為スニ至ル。故ニ半バハ婦人ノ右ト為リ、大夫ノ前ニ進メ難シ。)

むろん、「仮名序」の「今の世の中」に相当する箇所が、「真名序」の「彼時(彼ノ時)」であることは言うまでもない。「澆漓ニ変ジ、人奢淫ヲ貴ブ」とあるのは、「仮名序」の「(世の中)色につき、人の心花になりにける」に相当している。つまり、この時代がずいぶんと華やかな時代との印象があることは明白であろう。

この時代が、平安朝の初期、嵯峨天皇の時代をピークとする、いわゆる“唐風謳歌時代”であることは言うまでもないが、むろん、嵯峨を中心として国家運営がなされた時代であった。その在位期間は、809年から823年ではあったが、上皇となってからの影響力も絶対的なものがあり、厳密には、842年に崩御するまでの間、家父長としての強力な指導力を発揮し続けたて言っていい。

 

このように、九世紀に入って、時代は唐風謳歌の観を呈していたのであって、必然的に、「和歌」は、天皇を頂点とする朝廷からは遠かった。すなわち、825年生まれの業平については、文化史におけるその立ち位置を“唐風文化”の時代に求めなければならないのである。

『古今集』の「仮名序」「真名序」は、この時代の印象について、それぞれ「色につき、人の心花になりける」、あるいは「澆漓に変じ、人奢淫を貴ぶ」と言う。時代と人の心が華やかで軽薄であったというのであるが、要は、唐風という舶来の文化の印象を端的に述べたものである。

今、「文化史」という言葉を用いたが、“唐風謳歌”そのものは、この時代全般を貫く風潮であった。すなわち、公的世界と言える政治の世界においても、その範たる規準は「律令」であり、その根底を支える学問は「漢学」でなければならなかった。「文学」としての「漢詩文」も、その「漢学」の主要分野であったことは言うまでもない。

 

業平について、『三代実録』「卒伝」は、「略無才学」と言う。「才学」とは、この時代、「学問」ということであって、具体的に言えば、「漢学」であった。律令に基づいた行動が求められる官人にも、当然、「漢学」の知識が求められたのであり、逆に、「才学」が「無」い、ということは、端的に言えば、官人として生きていくことが難しいということであった。

業平卒伝を載せる『三代実録』の成立は延喜元年(901)のことであるから、この業平像は、ほぼ『古今集』成立当時の“業平のイメージ”と言っていい。つまり、「放縦」―自己の感情の赴くままに行動する自由―が業平のイメージであった、と考えるならば、第二段に言うところの「まめ男」という概念からは、やはり、すこし離れていると言うほかはないだろう。

しかし、そうはいうものの、人間であるから、たとえ放蕩三昧に生きているプレイボーイではあっても、時には「まめ」な一面を見せることもあったはずであって、その場合は、むろん、“青春時代”に多いのではないかと思われる。そういう意味では、二段の「まめ男」の物語は、在原業平という個人に限定したとしても、その青春時代の一コマとして理解するならば、『三代実録』に言う“業平像”と正面から抵触することはあるまい。

 

「うち物語らふ」「かのまめ男」

さて、その業平の青春における一コマとして「第二段」を読むならば、この物語はなかなか示唆に富む。主人公像は、その“若さゆえの実直さ”がもたらす「まめ」ということになり、物語の語り手は、それを「かのまめ男」と揶揄的に表現したのであろう。

男の「うち物語らふ」という行為は、「うち」―「もの」―「語る」―「ふ」という語構成で考えるべきだろうが、基本的には、「語らふ」は「語る」に継続を表す「ふ」の接続したもので、親密に語る、というほどの意味になろう。中古語には多いが、男女間で用いられる場合には、ほぼ“共寝”と同義で用いられる。「うち物語らふ」という語構成の用例こそ見出しがたいが、要は、「語らふ」に「うち」と「もの」が付いているかたちと考えるしかない。特に「もの」を付けた語構成は、概念の曖昧化をすすめることとなって、この場合、「語らふ」の語義の曖昧化を示していることになるのである。具体的に言えば、親密に語るということはあったが、“共寝”にまでは至らなかった、という諸注の解釈を裏付けるものとなる。

そして、ここで、さらに注意しなければならないのが、『古今』「恋三」の冒頭「業平歌」の上句との対応性である。もう一度、歌のみを掲げてみよう。

起きもせず 寝もせで 夜を明かしては 春のものとて ながめ暮らしつ

この場合、上句の「起きもせず 寝もせで 夜を明かしては」とは、まさに、物語本文の「うち物語らふ」の具体的事情と言っていいであろう。起きていたわけではない、かと言って、寝たわけではない、なんとなく、あなたの傍で夜を過ごし、結局、夜明けを迎えてしまった、という、まだ男と女との駆け引きに習熟していない「まめ男」の青春の“初心さ”が垣間見える。そういう意味では、この歌の上句は、物語本文の「うち物語らひて」の曖昧さ、わかりにくさを見事に表現し切った画期的な叙述ではあろう。物語読者のなかには、そこに、思わず笑い声をあげたものがいたかもしれないとさえ思う。当の男が在原業平である。その業平の、青春時代のひたむきさが、物語世界の「まめ男」を借りて、「うち物語らふ」行為と和歌の上句「起きもせず 寝もせで 夜を明かしては」の和歌に結実した、と解釈すべきではなかろうか。

 

ただし、『古今集』「恋三」冒頭の場合は、二段とは異なり、「後朝」のかたちではない。従って、こちらは、ごく常識的に、春の長雨の中、思うようにいかない恋に悶々とする業平の日常世界を歌ったものであること、言うまでもない。

―この稿続く―

 

2015.5.7 河地修

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