-伊勢物語論のための草稿的ノート-
第29回
「母なむ藤原なりける」考―没落と貴種流離譚(三)
『伊勢物語』の「東下り・東国物語」は、「貴種流離譚」の話型を踏まえている。在原業平はむろん貴種であり、ごく自然のこととして、この物語の主人公に業平のイメージを合致させようとすることは理解できなくなくもないが、しかし、そのことで、あるいは皮肉にも、重大な読み誤りが発生したのではないかと思われる。というのは、実在の在原業平が没落し、そして、食べていくために都を棄てた、というような史実は、あきらかにないわけであって、『伊勢物語』の主人公が在原業平に比定される限り、「東下り」は、没落貴族の流離の話としては読みにくいということになるのである。つまり、たとえば、恋に破れた男が都を棄てるというような「東下り」の理解になるのである。かく言う私も、二条の后藤原高子との反社会的恋の結果としてのみ、「東下り・東国物語」を捉えようとしていたことがある(「伊勢物語二条の后物語の生成」『伊勢物語論集―成立論・作品論』(竹林舎)所収)。
しかし、都人である「昔、男」が、武蔵国の娘に求婚するという話は、あきらかに、都において恋に破れた男の逃避行、というわけにはいかないであろう。やはり、生活に困窮した没落貴族の東国での話として捉えるほかはあるまい。
没落の貴族(昔、男)が東国へ下るとはどういうことか―。それは、端的に言えば、生きてゆくための東国行だと言わなくてはならないのである。つまりは、食べるためなのである。かつて、東国に土着した没落の貴族たちの多くが、やがて力を蓄え、勢力争いや合従連衡を繰り返した結果、源氏を中心とする武士集団を形成していったことは周知のことであろう。そのなかには、陸奥において藤原を名乗る氏族も現れたのである。そして、たとえば、中流(中の品)の受領層のなかには、国司として地方に着任し、その離任後も帰京が不可能となった人々も多かったものと思われる。
たとえば、『更級日記』に、作者の父である菅原孝標が常陸国に赴任するにあたって、作者に次のような言葉を送るくだりがある。少し長いが、当時の受領層の地方赴任のリスクをリアルに語っているところでもあるので、引用し考察してみたい。
「年ごろは、いつしか思ふやうに近き所なりたらば、まづ胸あくばかりかしづきたてて、率てくだりて、海山のけしきも見せ、それをばさるものにて、わが身よりも高うもてなしかしづきてみむとこそ思ひつれ、われも人も、宿世のつたなかりければ、ありありてかく遥かなる国になりにたり。幼なかりし時、あづまの国に率て下りてだに、心地もいささか悪しければ、これをやこの国に見捨ててまどはむとすらむと思ふ、人の国の恐ろしきにつけても、わが身一つならば、安らかならましを、ところせう引き具して、言はまほしきこともえ言はず、せまほしきこともえせずなどあるがわびしうもあるかなと、心をくだきしに、今はまいて、大人になりにたるを率て下りて、わが命も知らず、京のうちにてさすらへむは例のこと、あづまの国、田舎人になりてまどはむ、いみじかるべし。京とても、たのもしう迎へとりてむと思ふ類、親族もなし。さりとて、わづかになりたる国を辞し申すべきにもあらねば、京にとどめて、永き別れにてやみぬべきなり。京にも、さるべきさまにもてなしてとどめむとは、思ひよることにもあらず」
(これまで長年の間、何とかして早く希望どおりに、都に近い国の国司に任官したならば、何よりもあなたを思いどおりに大切にお世話し、任国にも連れて行って、海山の風景も見せ、それはもちろんのことだが、あなたを自分よりも尊く扱い、大切に育てあげたいと思っていたのだが、自分もあなたも宿運に恵まれることがなかったので、挙句の果てに、このような遠国に赴任することになってしまった。あなたが幼かった時、東国に連れて下った時でさえ、気分が少しでも悪いと、この娘をこの国に残して私が死んでしまったなら、この地で途方に暮れることになるだろうと思い、また、地方の国の人々の恐ろしさを思うにつけても、自分一人だけならどんなに気楽だっただろうに、家族を多く引き連れて来ているので、言いたいことも言えず、したいこともできずにいるのがとてもつらいことだなあと、心を砕いていたものだが、今はまして、大人になったあなたを連れて任国に下って、自分の命はいつ果てるとも知れず、都で彷徨うなことはよくあることだが、東国の田舎人となって路頭に迷うようなことにでもなれば大変なことであろう。都の中と言っても、安心して引き取ってもらえるような親戚縁者もいない。だからといって、ようやくのことで任官がかなった国司を辞退申し上げることもできないので、結局はあなたを都に残して、このまま永別することになってしまいそうである。都に残すとしても、然るべき生活の保障を行って行くなんてとてもできそうにもないことだ。)
―この稿続く―