河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第33回
「武蔵なる男」と「京なる女」―都鄙意識について(一)

 

『伊勢物語』「十二段」に続く「十三段」は、「武蔵なる男」と「京なる女」との手紙のやり取りからなる話である。物語として、特にドラマ性があるわけではないが、東国と京、すなわち「鄙(ひな)」と「都」との対照的落差性を考えるうえで興味深いものがある。

まず、本文を掲げてみよう。

 昔、武蔵なる男、京なる女のもとに、「聞ゆれば恥づかし。聞こえねば苦し」と書きて、うはがきに、「むさしあふみ」と書きておこせてのち、音もせずなりにければ、京より女、
   むさしあふみ さすがに掛けて 頼むには 問はぬもつらし 問ふもうるさし
とあるを見てなむたへがたき心地しける。
   問へば言ふ 問はねば恨む むさしあふみ かかるをりにや 人は死ぬらむ

(昔、武蔵に住む男が、京に住む女のもとに、「お知らせすると面目が立たず恥ずかしい。かといって、お知らせしないと心苦しい」と手紙に書いて、その上書きに「むさしあふみ」と書いて寄越してから後、消息を知らせなくなったので、京から女が、

  武蔵で結婚をしたとか。そうは言っても、さすがにあなたのことを頼みとする私には、
  あなたが手紙をくれないのは薄情だと思うし、手紙をくださるのも鬱陶しい思いです。

と手紙にあったのを見て、男は堪え難い思いがしたのであった。

  手紙を書くと鬱陶しいと言う。書かないでいると薄情だと恨む。こういう時に、
  人は苦しみのあまり死ぬのであろうか)

この章段に登場する男女は、むろん、男女の契りを結んでいたであろう。一方の女が「京なる女」である以上、その舞台は都であったと推測するしかない。とすれば、もう一方の「武蔵なる男」とは、かつて都にいた男なのである。つまり、この男は、前段の男同様都から離れ、生活のために武蔵まで流離した没落貴族の男と考えるほかはない。

都から東国の武蔵国へと漂着した男は、都の女へ手紙を送ったのであるが、その内容は「聞ゆれば恥づかし。聞こえねば苦し」というものであった。簡単に言えば、知らせないわけにはいかないが、知らせるのが「恥ずかしい」というのである。男は何を知らせる必要があったのか。そして、そのことが恥ずかしいということは何であるのか。このあたりの事情を少し精密に考えてみなければならない。

男の手紙は、武蔵国で何があったのかを具体的に記してはいない。それは、直截に記すことが憚られる内容であったから、「聞ゆれば恥づかし」と書いたのである。しかし、「聞こえねば苦し」とも続けているのは、知らせないわけにはいかないという認識があったのである。すなわち、それは、武蔵国において、男が「婚姻」するに至ったという報告なのであった。そのことを婉曲に伝えようとしたことが、「うはがき(上書)」にある「むさしあふみ」という言葉だったのである。

「むさしあふみ」について、諸注「武蔵鐙」と漢字を当てることが多いが、ここは、相手が都の女であることを考えれば、「むさしあふみ」と仮名表記であったと考えるべきであろう。「むさしあふみ」の「むさし」とは武蔵国であるから、武蔵国における「あふみ」=「逢ふ身」、すなわち「武蔵国での婚姻」を報告しようとしたものである。「聞こえねば苦し」とあるのであるから、男の手紙の目的は、自身の婚姻の報告と考えるほかはなく、その目的のための手紙である以上、「うはがき」に「むさしあふみ」と書いたと考えるべきである。次に展開する両者の贈答で「掛詞」として用いられる言葉であることを考えても、ここは、仮名書きでなければならない。

この「ふさしあふみ」に、「京なる女」は、男の微妙な心情を読み取ったのであった。すなわち、それが、和歌にある「武蔵鐙」という言葉だったのである。

 

2017.3.20 河地修

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