河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第68回
思うに任せぬ恋―恋の諸相

 

25段から28段の短い諸章段は、内容面でも共通の要素があるようである。恋のあり方とでも言うべきもので、それは「思うに任せぬ恋」ということであろう。

恋のあり方は種々様々のものがあろうが、その思いを「歌」に託すということになれば、やはり、恋がもたらすところの苦しみが多いのではないだろうか。その喜びや楽しみといったものが「歌」にふさわしくないというわけではないが、やはり、人は、恋の苦悩に直面してこそ、その思いも深まるというもので、その結果として、優れた恋歌を創ることができるのである。そして、何よりも、「恋」というものは、そう簡単に思いのままことが進むというものではあるまい。つまり、思うに任せぬ恋、ということになるのである。

 

先に検討した25段は、女(小野小町)が「色好みなる女」ということで、男(在原業平)を手玉に取ったような趣があった。現実の小町に関する説話も、それと似たような逸話が残っているので、あるいは、「逢はじとも言はざりける女のさすがなりける」(逢瀬を拒否した訳ではない女がしかし実際にはなかなか逢わなかった)というようなことは多かったのかも知れない。小町に限ったことではなく「恋多き女」=「色好みなる女」には、そういう思わせぶりの態度はよく見られるものではあろう。

しかし、男の側からすれば、これはたまったものではなく、まさに、思うに任せぬ恋の典型とも言うべきものであろう。

次の26段も、テーマとしては、「思うに任せぬ恋」ということができる。物語文としては、歌についてのごく短い事情が語られている。歌とともに掲げてみよう。

 

昔、男、「五条わたりなりける女をえ得ずなりにけること」と、わびたりける、人の返りことに、

(昔、男が、五条あたりにいた女を手に入れることができなくなってしまったことだと、嘆いたのだったが、ある人からの返事に、)

おもほえず 袖にみなとの 騒ぐかな もろこし船の 寄りしばかりに

(思いがけないことに、袖に港のような大量の海水が騒ぐ―涙で濡れることです。唐土船のような、あなたからの意外なお便りがあったばっかりに)

 

この章段は、「昔、男」が、「五条わたり」の女を「え得ずなりにけること」で「わび」た「人」に「返りこと」としての歌を送ったのか、あるいは、そのことを「昔、男」が「わびた」結果、「人」から「返りこと」として歌が送られて来たのか、主体としては両説があるが、いずれにしても、「五条わたりの女」を手に入れられなかったとする苦衷の思いを詠ったことに違いはない。

この「五条わたりの女」からすぐに連想されるのは、3段から6段に渡って展開された「二条后物語」であろう。諸注が言うような、その「後日譚」としての位置づけにはやや無理があろうが、しかし、この物語は、やはり、思うに任せぬ恋の典型としなければならない。

27段は、前段の26段とは反対に、男が「女のもとに一夜行きて、またも行かずなりにければ、」とあるので、女の立場からの「思うにまかせぬ恋」である。男が女のところに「一夜」だけ行き、「またも」=「二日目」は行かなかった、というのは、男に結婚の意思はないのである。つまりは「遊び」ということであって、女にすれば、これほどの悲しみはあるまい。女は、手を洗う「たらひ」の水に映った自身のもの思う顔を見て、「わればかりもの思ふ人はまたもあらじと思へば水の下にもありけり」と嘆いたのであった。そこに男がちょうど現れたという設定は、それでも女のことが気になった「色好み」の男の浮気めいた行動にほかならない。

そして、28段は、また前段とは反対に、男の立場からの「思うにまかせぬ恋」となっている。その相手役が「25段」と同様「色好み」の女ということで、男も恋に苦しむほかないのである。男はこの「色好みなりける女」と同棲していたのであろう。しかし、恋多き女であるから、また別の恋に走ったものと思われる。いつの時代でもこのような恋のあり方は見られるものであり、そこに生きる男と女の苦悩は歌にふさわしいものがある。

 

 

2018.1.12 河地修

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