河地修ホームページ Kawaji Osamu
https://www.o-kawaji.info/

王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第70回
「狩使本」のこと

 

林美朗氏の訃報に接して

「中古文学で『伊勢物語』研究に従事する者なら、そのお名前は誰もが知っているであろう。かつて「狩使本」の復元ということで一書を世に出された、林美朗氏である。

その林美朗氏が、昨年の10月8日に亡くなられたということを、このたび氏のご友人が知らせてくださった。実は、林氏が、北海道から高知の大学へ移られたらしいことは、学会の消息欄等から気付いてはいたが、日本列島を大きく縦断するような異動に少し驚いただけで、私にとっては、それだけのことであった。

私は、生前、氏と面識があったわけではない。ただ、林美朗という名には、興味は持っていた。それは、氏の研究が、「狩使本」の復元を目指されたという、ただその一点においてのみの興味であったように思う。

私は、そういう興味を持ってはいたが、しかし、申し訳ないことではあるが、氏の研究そのものにはさほど関心を持たなかった。矛盾するようだが、私は、「狩使本」というものに対して、それがかつてこの世に出現したことへの人間的な面白味を感じても、「狩使本」じたいは、けっして認めてならないという立場であったから、林氏がなぜこのような研究をなさるのかが理解できなかった。氏が「狩使本」の復元研究の書物を刊行されたことは知っていたが、あえてそれを読もうという気にはならなかったのである。

「狩使本」と呼ばれる『伊勢物語』の異本は、おそらく、現在、この世には存在しない。存在しないからこそ、林氏は他の文献を博捜してその復元を試みられたのだと思う。しかし、林氏には申し訳ないが、仮にそのかたちが今かなり復元されたとしても、それがどれほどの意味があるのかとも、今でも思う。

 

藤原定家と「狩使本」

「狩使本」とは、『伊勢物語』の第69段目に位置する、いわゆる「斎宮章段」を、この物語の端緒に置いたという異本形態の本の謂いである。先述したように、そのような本は、おそらく今日存在していない。しかし、藤原定家の時代、この形態の異本(狩使本)は世に出たか、あるいは、話題に上ったことは間違いのないことであった。定家は、『伊勢物語』を書写したその奥書に、次のような言葉を書き記した。

近代以狩使事為端之本出来。末代之人今案也。更不可用之。

(最近になって狩の使の事を物語の端緒とする本が現れた。末の世の人が新しく作り出したものである。決してこれを用いてはならない)

また、別の定家書写本の奥書には、次のような定家の言葉も載せられている。

又或説、後人以狩使事改為此草子之端、為叶伊勢物語道理也。件本、狼藉奇恠者也。

(又或る説に、後人が狩の使の事をこの物語の端緒として改めた、これは「伊勢物語」の作品名が説明できるようにしたものである。その本は、不埒でけしからぬものである)

藤原定家という人は、おそらく、後世「狩使本」と称せられる「件本」の出現が許せなかったものと思われる。それは、定家がこの物語の本質をよく理解していることから来る怒りではなかったかと思う。定家は、また、『伊勢物語』の書写本の奥書で、次のようにも書いているのである。

上古之人強不可尋其作者、只可翫詩華言葉而已。

(古代の人は、強くこの物語の作者のことを考えようとせず、ひたすら物語の和歌やその言葉を取り上げて鑑賞するだけであった)

定家がここで言う「作者」とは、『伊勢物語』という作品を作り、それを世に送り出した人物のことを指している。「上古之人」は、そのことを厳密に考えようとはせずに、物語の「詩華言葉」だけに注目していたと批判するのである。

ここに示されている定家の認識とは、『伊勢物語』が、「作者」という存在が作り上げた「一個の作品」であるという認識にほかならない。定家は、「上古」からの人々が、この物語を「一個の作品」として認識することができなかったということを強く批判しているのである。物語の「詩華言葉」を「翫(もてあそ)」ぶとは、作品としての全体像を考えることなく、たんに物語の中身の章段個別への興味に集中していたということであろう。つまり、この物語の全体としての「作品」の意味を考える姿勢が、「上古之人」にはなかったということになる。

平安末から鎌倉初期は、定家が拠って立つ「御子左家」とそのライバルであった「六条藤家」とが、「学問の家」として対峙する時代でもあった。そういう「歌の家」が存立する社会的背景があり、さらに、和歌は、一首毎単独に理解鑑賞するものという歌学における自然な感覚が、この「作品」を、いとも簡単に分断せしむることに繋がったのであろう。定家は、そのことを厳しく糾弾したのであった。

私は、定家の時代、「狩使本」が、たとえ一瞬であったとしても、それが世に生まれ出たということに、人間社会のおかしみというものを感じる。それは、はるか後年、昭和40年代のことだが、「成長論」という仮説が世に出され、多くの国文学者が支持したということにも似ている。「成長論」を提唱した研究者は、この物語が、「一個の作品」であるという認識を持つことができなかったのである。それは、近現代が、「個」の「集まり」を全体として「一個の作品」として認識することができにくいということにも起因している。そのことは、未だに『古今和歌集』が、「一個の作品」として理解されようとせず、明治40年代に提示された正岡子規以来の認識(歌よみに与ふる書)のままあり続けていることでも理解されるであろう。

「仮名序」「真名序」を持つ『古今和歌集』への理解でさえこうであるのだから、「序」など持つはずのない『伊勢物語』は、古代から現代に至るまで、それが「一個の作品」として理解されることはなかなか難しかったのである。

 

定家本の形態(初冠本)

この物語に対する定家の「一個の作品」という認識は、具体的に言うならば、それは定家本が有する形態に表れている。それは、定家本を含む現存の完本のすべてに共通する形態ではあるが、「昔、男、初冠(うひかうぶり)して、」で始まる章段を端緒(初段)とし、「昔、男、わづらひて、」で始まる終焉の章段(最終段)で閉じる形態の本である。すなわち、主人公である「昔、男」の一代記(生涯)のかたちの物語形態と言っていい。

この一代記の形態を取るものを、「狩使本」との区別という観点から「初冠本(ういこうぶりぼん)」と呼ぶようになったのである。くどいようだが、現存する『伊勢物語』は、すべてが「初冠本」の形態を取るのであって、書誌的に言うならば、現実問題として、「初冠本」以外に『伊勢物語』はこの世に存在しないのである。

この「初冠本」を、定家が「一個の作品」として重んじたのは、どのような認識からなのであろうか。それは、主人公の「一代記」のかたちにある、と考えるほかはない。主人公の一代記とは、当たり前のことだが、その生涯が、そのままある特定の時代に合致することにほかならない。その特定の時代とは、この物語を丁寧に読んだことがある人なら誰でも解ることであろうが、平安京遷都間もなくのころから光孝天皇の時代に及ぶ、ほぼ9世紀の時代ということなのである。

和歌の歴史における9世紀とはどのような時代であったのか―。『古今和歌集』の「序」では、この時代の持つ意義の重さを繰り返し主張して余りあるものがあるが、藤原定家という人は、このことを明確に理解していたに違いない。この時代は、和歌が天皇のもとから離れていた時代であった。当然、その間(9世紀)、和歌の歴史を担っていた人々は誰であったのか、という問いかけは必然のものであった。

『伊勢物語』の一代記の形態とは、その9世紀の和歌の歴史に合致するのであるが、しかし、作品というものへの無理解によって、あるいは、この物語の題号をわかりやすく説明するという安易な思い付きによって、それはいとも簡単に、作品の改変が行われたのである。そのことに対する定家の怒りは、激しいものがあるとしなければならない。

ことは、「狩使本」だけの問題ではないのである。『古今和歌集』成立(905年)前後から『拾遺和歌集』成立(1005年頃)のころまでに、この物語が不断の成長増益を繰り返したとする、いわゆる「成長論」なる仮説も、『伊勢物語』という「一個の作品」に対して、あまりにも無理解に過ぎた実質的な作品の改変(分解)と言わざるを得ない。

その無理解とは、この国の和歌の歴史における「9世紀」という時代に対する無理解であり、ひいては、この国に於ける「和歌」の存在の重さに対する無理解でもあろう。

しかしながら、「初冠本」の形態が持つ本質―『伊勢物語』の本質である―をあらためて深く考えさせてくれたという点において、この「狩使本」なる異本の存在は、『伊勢物語』研究史から消し去っていいはずもなく、また、この異本の復元に情熱を注がれた林美朗氏のお名前も、忘れていいはずもない。ご冥福を心からお祈りしたいと思う。

 

2018.1.28 河地修

一覧へ

>