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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第71回
『新勅撰和歌集』と『伊勢物語』―そして「成長論」のこと

 

『伊勢物語』の「第30段」は、きわめて短い。詠歌事情を語る物語文がこれだけ短くては、その事情は不明確としか言いようがないが、あるいは、前段の29段の「東宮の女御」との青春時代のごく短い恋を念頭に置いたものかもしれない。次に掲げてみよう。

昔、男、はつかなりける女のもとに、

あふことは 玉の緒ばかり おもほえて つらき心の 長く見ゆらむ

(昔、男が、わずかに逢っただけの女に、

あなたに逢うことは、ごく短い一瞬の時だけだと思われて、それとは逆に、あなたの薄情な心は、どうして長く見えるのでしょうか)

ここで言う「はつかなりける女」とは、逢瀬の機会がごくわずかだった女、ということであろう。つまり、逢うには逢えたが、その関係は短かったというのである。29段の「東宮の女御」との青春時代のことを意識しているかも知れないという所以でもある。しかし、それは、前段と結び付ければそうとも読める、という程度のものであって、厳密に言えば、具体的な詠歌事情は分からないのである。

実は、この「30段」は、後述する他の章段とともに、藤原定家撰『新勅撰和歌集』に和歌が採録されているという点で注目しなければならない。それは、『伊勢物語』の成立論として一時脚光を浴びた「成長論」の根幹を揺るがすことでもある。

平安時代末、おびただしい数の古典籍の書写作業に従事した藤原定家は、貞永元年(1232年)、後堀河天皇の下命のもと、9番目にあたる勅撰和歌集の『新勅撰和歌集』を単独で撰集した。当時の歌壇を牽引した後鳥羽院は隠岐に配流となり、定家としては、いよいよ自身のめざす所の歌風に基づく「勅撰和歌集」の撰集であった。

この『新勅撰和歌集』には、『伊勢物語』にある和歌が複数収載されており、30段の「昔、男」の歌もそうである。『新勅撰和歌集』「巻十五」「恋五」には、次のようなかたちで載せられている。

題知らず

詠み人知らず

あふことは 玉の緒ばかり おもほえて つらき心の 長くもあるかな

見てわかるように、第五句が「長くもあるかな」とあって、30段のややわかりにくい「見ゆらむ」からすっきりと平明な表現になっている。30段にあるかたちのものを定家が修正したものかも知れないが、ここで注意したいことは、当該歌が「題知らず、詠み人しらず」として収載されていることである。諸般の状況に鑑みて、この歌が『伊勢物語』以外の原資料から収載されたと考えるのは無理で、これはほぼ間違いなく『伊勢物語』からの採歌と考えるべきである。定家は、「30段」のごく短い物語の歌を、「題知らず、詠み人しらず」として、『新勅撰和歌集』「巻十五」「恋五」に収めたということになる。

さて、『伊勢物語』「成長論」である。この仮説が、昭和40年代に学界に登場し、多くの研究者が支持したことは周知のとおりである。その仮説を簡単に言えば、『伊勢物語』は、『古今和歌集』成立(905年)前後から『拾遺和歌集』成立(1005年頃)のころまでに不断の成長増益を繰り返したとするのである。そして、その仮説の拠り所となったことは、950年ごろに成立したと思われる二つの「業平家集」との比較である。その「業平家集」と『伊勢物語』とを比較すると、業平の歌が半分程度しかないという事実があり、それは、なぜかと言うと、その当時の『伊勢物語』の規模が、現行よりも小さかったからだ、とするのである。すなわち、950年のころの『伊勢物語』は、現行の半分程度のものであったとするのである。つまり、ここから「成長」という概念が作り出されたのであった。

しかし、あっけないことだが、その二つの「業平家集」が、『伊勢物語』の「昔、男」の歌を全部採らなかっただけのことだ、と考えれば、その仮説はもうそこで終わりなのだが、提唱者の片桐洋一氏は、二つの「業平家集」が全部採ったのだ、と主張したのである。

そして、その二つの「業平家集」が全部採った(想像である)ことの理由として、『伊勢物語』の「昔、男」は、当時の人々はすべて業平だと信じて疑わなかったからだ、というのである。確かに、「物語」というものの楽しみ方とはそういうものと言っていいが、それと「個人家集」の編集とは次元が異なる。しかし、片桐氏は、藤原定家でさえ、『新古今和歌集』や『新勅撰和歌集』に、在原業平の実作とは思われないものを『伊勢物語』の「男」の詠であるがゆえに、すべて「在原業平」の作として採歌している、と述べるに至ったのである。これは驚くべき発言であった。

このことは、すでに拙著(『伊勢物語論集―成立論・作品論―』竹林舎2003年)で指摘していることだが、『新勅撰和歌集』にはそういう採歌のあり方は微塵もないのである(新古今も)。ものを論じる時に、それが正しいか誤りか(見解の相違)は別として、その前提としての根拠を示すのは当然のことである。しかし、その根拠として示すデータに虚偽や捏造があってはならないのは当たり前のことであって、この仮説の根拠を論じる段階において、このような虚偽の報告が述べられたのはまことに遺憾なことであった。

藤原定家が『伊勢物語』の「男」の歌をすべて「在原業平」の歌として採歌しているかどうか、それは調べてみれば誰にでもわかることなのである。この「30段」の歌も、『新勅撰和歌集』は、「在原業平朝臣」ではなく「題知らず、詠み人知らず」として載せているではないか。

実は、『新勅撰和歌集』中、『伊勢物語』の歌と重複するものは、全部で16首存する。その中で男性主人公の歌の収載は13首であり、その採歌の状況は以下に列挙するとおりである。

 

1、『伊勢物語』「15段」

しのぶ山 忍びてかよふ道もがな 人の心の 奥も見るべく

『新勅撰和歌集』「巻15、恋5」

みちのくににまかりて女につかはしける/業平朝臣

 

2、『伊勢物語』「21段」

人はいさ 思ひやすらむ 玉鬘 面影にのみ いとど見えつつ

『新勅撰和歌集』「巻15、恋5」

題知らず/詠み人知らず

 

3、『伊勢物語』「30段」

あふことは 玉の緒ばかり おもほえて つらき心の 長く見ゆらむ

『新勅撰和歌集』「巻15、恋5」

題知らず/詠み人知らず(5句、長くもあるかな)

 

4、『伊勢物語』「34段」

言へばえに 言はねば胸に 騒がれて 心ひとつに 嘆くころかな

『新勅撰和歌集』「巻11、恋1」

女につかはしける/業平朝臣

 

5、『伊勢物語』「35段」

玉の緒を 沫緒に縒りて 結べれば 絶えてののちも 逢はむとぞ思ふ

『新勅撰和歌集』「巻15、恋5」

題知らず/詠み人知らず

 

6、『伊勢物語』「56段」

我が袖は 草の庵に あらねども 暮るれば露の 宿りなりけり

『新勅撰和歌集』「巻17、雑2」

題知らず/業平朝臣

 

7、『伊勢物語』「57段」

恋ひわびぬ 海人の刈る藻に 宿るてふ われから身をも くだきつるかな

『新勅撰和歌集』「巻12、恋2」

題知らず/詠み人知らず

 

8、『伊勢物語』「65段」

さりともと 思ふらむこそ かなしけれ あるにもあらぬ 身を知らずして

『新勅撰和歌集』「巻14、恋4」

題知らず/詠み人知らず

 

9、『伊勢物語』「73段」

目には見て 手には取られぬ 月のうちの 桂のごとき君にぞありける

『新勅撰和歌集』「巻15、恋5」

題知らず/湯原王

 

10、『伊勢物語』「75段」

袖濡れて 海人の刈りほす わたつうみの みるをあふにて やまむとやする

『新勅撰和歌集』「巻11、恋1」

女につかはしける/業平朝臣

 

11、『伊勢物語』「83段」

枕とて 草ひきむすぶ こともせじ 秋の夜とだに 頼まれなくに

『新勅撰和歌集』「巻8、羇旅」

惟喬の親王の狩しけるともに日ごろ侍りて、帰り侍りけるを、なをとどめ侍りければ、詠み侍りける/業平朝臣

 

12、『伊勢物語』「111段」

いにしへは ありもやしけむ 今ぞ知る まだ見ぬ人を恋ふるものとは

『新勅撰和歌集』「巻11、恋1」

題知らず/詠み人知らず

 

13、『伊勢物語』「124段」

思ふこと 言はでぞただに やみぬべき われとひとしき 人しなければ

『新勅撰和歌集』「巻17、雑2」

題知らず/業平朝臣(2句、言はでただにぞ)

 

これらを見てわかるように、この全13首の内訳は、在原業平6首、湯原王1首、詠み人知らず6首となっており、この事実から、どうして藤原定家が『伊勢物語』の男の歌をすべて業平と理解していた、というような見解が出てくるのか、私にはわからない。それよりも、たとえば、(9、)として掲げた『伊勢物語』「73段」の事例に注目してみるといいだろう。

「73段」の「目には見て手には取られぬ月のうちの桂のごとき君にぞありける」の歌は、早くから諸注が一致して指摘するように、『萬葉集』「巻4」に載せる「湯原王贈娘子歌二首」のうちの一首なのである。定家は、この歌の詠者を「業平朝臣」でもなく「詠み人知らず」でもなく「湯原王」として採録したのである。これは、『伊勢物語』よりも、その原歌である『萬葉集』を優先したのであり、その姿勢は、学問的にきわめて厳しいものがあると言うべきであろう。

『新勅撰和歌集』に『伊勢物語』から採歌されている状況を見る限り、藤原定家は、『伊勢物語』の「男」の歌について、それが業平作であるかどうかということを見極めようとしたと言うほかはない。それは、定家という人物が、『伊勢物語』という物語について、その本質を正しく理解できる人物であったということを物語っている。それは、たとえば、定家が、件の「狩使本」を激しく糾弾したのも、藤原定家という人が、この物語が一個の「作品」として成立していることを強く認識していたからに他ならない。

 

2018.1.31 河地修

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