河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第88回
「武蔵野の心なるべし」(41段)(三)

 

「むらさき」の始発―「むらさきのにほへる妹」

これは、純粋に言葉としての問題なのだが、「むらさき」という言葉が、初めてこの国の文芸史上に現れたのは、『萬葉集』「巻一」の大海人皇子(天武天皇)の歌であったに違いない。

 

むらさきのにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも

(紫草(の根)で染めた色のように美しいあなたを憎いと思うならば、人妻であるのに、こんなに恋しく思うだろうか。)

 

この場合の「むらさき」とは何であろうか。「にほふ」とは、はなやかな美しさを言う言葉であり、「むらさき」がそれを形容する語彙である以上、それは美的語詞と考える他はなく、だとすれば、「紫(草)のように美しい」と読みとるのが妥当であろう。

ただ「紫草」は、いわゆる薬草であって、その花弁は、白色の地味なものである。それが美しいかどうかは、人の感じ方によるとはいえ、「にほふ」と表現される美しさとはやや距離があるように思える。地味だから美しくはない、ということにはなるまいが、あるいは、この歌の「むらさき」とは、「紫草」の根で染めた色ということで、それを「むらさきのにほへる」と詠ったのではなかろうか。

この時、額田王は、天智天皇の寵愛を篤くしていたので、「むらさき」という古代の高貴性を象徴する色彩の美的語詞は、その形容としてふさわしいものがあると言えるだろう。

この大海人皇子の歌は、次の額田王の歌への返歌であったことはよく知られている。

 

あかねさす紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る

(紫野を行き、標野を行く私だが、野守は不審に見ないだろうか、私にあなたが激しく袖を振るのを)

 

この額田王と大海人皇子の贈答には、少し複雑な背景がある。額田王は、もともと大海人皇子の妻であった。しかし、白村江敗戦(663)を受けて大津宮に遷都(667)後は、そこで即位した中大兄皇子(天智天皇)の寵愛を受けたと言われている。そのことを推測させるのがこの贈答ということになるのだが、この時の「題詞(詞書)」は、それぞれ次のように簡潔に述べるだけである。

 

天皇の蒲生野に遊猟したまひし時に、額田王の作りし歌

(天智天皇が蒲生野で薬草を採集なさった折に、額田王が作った歌)

 

皇太子の答へたまふ御歌

(皇太子がお答えになられた御歌)

 

しかし、『日本書紀』(巻27天智天皇668年5月5日)は、この時の遊猟について、次のようにやや詳しく記録している。

 

五月五日、天皇獦縦於蒲野生。于時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉従焉。

(五月五日、天智天皇が蒲生野で狩をなさった。この時には皇太弟、諸親王、内臣以下多くの臣下が皆従ったのである。)

 

ここで記されている「天皇」は、むろん天智天皇であり、「大皇弟」とは当時皇太弟(皇太子)の大海人皇子であった。天皇は、皇太弟をはじめとして親王、臣下たちを引き連れ、大津近郊の蒲生野の地に薬草狩を行ったが、その中に、天智天皇の寵妃であった額田王もいたのである。

額田王は、元は大海人皇子の妻であったから、大海人皇子は前夫ということになる。その前夫である大海人皇子が、当時の男女間の愛情表現でもあった「袖を振る」という行為に至ったのであった。その時は天智天皇の寵愛を受けている額田王であるから、前夫とはいえ大海人皇子のその行為は迷惑なことではあったろう。その困惑する「人妻」としての心情が当該の一首ということになるのである。 

そして、さらに言うならば、大海人皇子の歌にも、前夫としての複雑な心情が込められている。それは、「むらさきのにほへる妹を憎くあらば」の「憎くあらば」という表現である。「憎し」とは、現代語の「憎い」と変わらないので、あなたのことを「憎い」と思うならば、ということになるであろう。とすれば、この表現には、大海人皇子が額田王を「憎い」と思うことが前提としてなければならず、それは、額田王が大海人皇子のもとを去り、天智天皇の寵愛を得る立場になった、ということ以外にはないであろう。自分のもとから離れ天皇の妻となったあなたを憎む気持などはなく、今でも恋しくてならないのだ、という激しい恋情を訴えた一首なのである。

ただ、このやり取り(贈答)について、一部の萬葉学者の間で、当日の「宴」でのこと(余興)とする解釈があるのだが、どうであろう。その根拠らしきものは、この贈答が、「部立」として、恋の「相聞」ではなく公的和歌の「雑歌」に収められているということらしいが、しかしながら、そもそも「雑」という概念に「公的」という要素などはない。「雑」とはあくまでも「雑」であって、しかも「巻一」成立の時点では、「部立」はまだ成立しておらず、「巻二」編纂の時点で「相聞」「挽歌」の「部立」が成立、それに伴い「巻一」に遡って「雑歌」という部立が付された、とする説(新潮日本古典集成萬葉集)は、今では確説ではないかと思われる。

さらに、ここで注意したいのは、額田王が「野守は見ずや」と詠っている点である。なぜ「野守」(番人)なのか、という視点から考えるならば、大海人皇子は、この場合、天智天皇をはじめ、その他の親王や臣下たちの前で「袖を振った」わけではあるまい、と思われるのである。この「野守は見ずや」という表現には、大海人皇子が、「禁忌」を意識しつつ、今なお忘れ難い額田王に、天皇とその周辺の目から逃れ、密かにその心情を強く訴えかけたものと考えることができるである。

 

「むらさき」の系譜―天武御製から古今詠み人しらず歌、そして伊勢、源氏へ

この二人のやり取りが、天智天皇の耳に入ったかどうかは明らかではないが、ともかく、その後、近侍のものによって口承で伝えられたものと思われる。そして、それが、平城京遷都(710年)直後の頃、朝廷によって編纂された「萬葉集巻一」に、堂々と収載されたのである。むろん、その時、当事者たちはすでにこの世にはいない。

大海人皇子(天武天皇)が、当時最大の禁忌であった額田王への恋情を「むらさきのにほへる妹を」と謳いあげた情熱は、人々に強烈な印象を与えたのではないか。禁忌を打ち破りかねない激しい求愛の表出は、まさしく「いろごのみ」の極致と言っていいからである。古代、最高の「いろごのみ」の具現者こそ、天皇、もしくはそれと同等の資質を有する人物であった。

この「萬葉巻一」の天武御製を嚆矢として、「むらさき(紫草)」は深く愛する女性に譬えられる例が多くなったかと思われる。その傾向は「巻一」以降の『萬葉集』のいくつかの用例からも伺えるが、次に掲げる『古今和歌集』「巻十七」「雑歌上」「詠み人しらず」の歌などは、そうした比喩を前提にしなければ理解できないものであろう。

 

むらさきのひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る

(紫草―深く愛する人がそこにいるというだけで、武蔵野の草―その血縁の者すべてが愛おしいと思われることだ)

 

『古今和歌集』では、この歌に並べられて、41段の業平の当該歌(むらさきの色濃きときは目もはるに野なる草木ぞわかれざりける)が続くのである。『古今和歌集』の配列原理から言っても、当然同じ「むらさき」の歌として理解しなければならない。

このように「むらさき」は、深く愛してやまない女性の表徴となった。それへの愛は、天武御製のように、禁忌をも破りかねないほどの激しさを有するものであった。そして、その限りなく深い愛情は、その人物の繋がりをも包容するものとなるのである。たとえば、『伊勢物語』「初段」では、「若紫」と表現される「女はらから」に、男が同時に求愛の歌(春日野の若紫の摺り衣しのぶの乱れ限り知られず)を贈るが、これこそ、血縁の重なり(姉妹)という禁忌に挑む「いろごのみ」像の表出であったろう。

そして、『源氏物語』世界では、この血縁の繋がりをモチーフとした。それは、「伊勢初段」に基づいて制作された「若紫」巻において、天皇妃である「藤壺」とその姪の「紫の上」との血縁の関係を具象化することで実現されたのであった。この場合、「藤壺」は、まさに禁忌としての「むらさきのにほへる妹」であり、その姪である「紫の上」は、物語中で表現されているように、「紫のゆかり」なのであった。

「41段」に話を戻すが、この場合、物語内容に即して言うならば、自身の妻の妹に直接この歌を贈った「昔男」の心情は、我が妻と同じようにあなたを大切に思う、ということを詠っているわけで、これは、ある意味で「女はらから」をめぐる禁忌性に触れるケースであるかも知れない。深読みに過ぎると言われればそれまでだが、「武蔵野の心なるべし」という作者のコメントは、そういったことを微妙に匂わしているのかも知れない。これはまたこれで、「いろごのみ」の業平にふさわしい逸話と言っていいだろう。

 

2021.2.28 河地修

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