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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



『古今和歌集』を考える

『古今和歌集』のメッセージ(二)

 

「勅撰集」ということ

『古今和歌集』は、わが国初の「勅撰和歌集」であることは言うまでもない。ただし、「勅撰集」ということであるなら、初めてというわけではない。『古今和歌集』よりも前に、勅撰の漢詩文集が撰集されているからである。まず、嵯峨天皇の勅を奉じて、弘仁五(814)年に『凌雲新集』が、さらに、弘仁九(818)年に『文華秀麗集』が、その後、淳仁天皇の勅により、天長四(827)年、『経国集』が撰集されている。これらを総称して「勅撰三集」と呼ぶ。国文学は仮名文学というイメージが強いので、国文学史においては日本の漢詩文学は冷遇されているが、これら三集は堂々たる「勅撰集」である。

この「勅撰三集」は、いわゆる「唐風謳歌」の時代風潮を反映したものである。主導したのは、平安京遷都を断行した桓武天皇の子の嵯峨天皇であった。嵯峨天皇は、大同四(809)年に兄の平城天皇の譲位により即位した。その翌年、いわゆる「薬子の変」が起こり、平城と彼を支えた藤原式家は没落した。当然のことながら、嵯峨は力で権力を掌握したことになり、その個人としての好尚が、時代の風潮(文化)をかたちづくったのである。

したがって、「勅撰集」としての先例は、「勅撰三集」(『凌雲新集』『文華秀麗集』『経国集』)なのだが、『古今和歌集』は、これらの勅撰漢詩集からは、直接的な影響を受けているとは言い難い。それは、「大和歌」と「漢詩」とは、根本的な違いがあるのはむろんのことだが、我が国における漢詩制作は、常に文明の光源としてあり続けた「唐」への、限りない憧憬の念の直接的な顕れでもあった。たとえば、『文華秀麗集』(818年)と『経国集』(827年)に至るや、詩集におけるこの国の漢詩人たちの「姓」は、漢字一字の「単姓」で表記されたりしたが、それは、まさしく、「唐」への憧憬が沸点に達した文化事象でもあっただろう。

しかし、『古今和歌集』が成立した延喜五(905)年には、唐の滅亡(907年)は目前に迫っていた。遣唐使はすでに寛平六(874)年に廃止され、文明の光源としての帝国は、とっくに輝きを失っていた。『古今和歌集』が直接的な範として強く意識したのは、『萬葉集』であった。このことは、『古今和歌集』「仮名序」の次の記述からも明白である。

だいないききのとものり、ごしょどころのあづかりきのつらゆき、さきのかひのさうぐわんおふしかうちのみつね、うゑもんのふしやうみぶのただみねらに、おほせられて、まんえふしふにいらぬふるきうた、みづからのをも、たてまつらしめたまひてなむ。

(大内記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少官凡河内躬恒、右衛門府生壬生忠岑らに、お命じあそばされて、『萬葉集』に採録されていない古い時代の歌や、撰者たちの歌をも、献上させなさったのであった。)

このくだりは、四名の撰者たちに醍醐天皇から勅命が下り、『萬葉集』に採録されていない古い時代の歌や、撰者たちの歌を献上させたということを述べたものだが、ここで、あえて「まんえふしふにいらぬふるきうた」と、『萬葉集』という歌集名を挙げていることに注目しなければならない。

また、「真名序」では、「昔、平城天子、詔侍臣令撰萬葉集」(昔、平城天皇は、臣下に詔を発せられて、『萬葉集』を撰進させなさった)と記され、『萬葉集』は平城天皇の勅命で撰集されたと明確に述べている。少なくとも『古今和歌集』の「序」の記述を読む限りでは、『古今和歌集』は、『萬葉集』に続く「和歌集」として撰集されたことは確かなことであった。

醍醐天皇には、『古今和歌集』は『萬葉集』の精神を継承するもの、という意識が強かったのではないか。「勅撰」として認めるかどうかは別問題として、『古今和歌集』の原点には、『萬葉集』を位置付けなければならないと思われる。

 

『萬葉集』の成立

ところで、令和の時代、『萬葉集』が大きく注目を浴びたのは記憶に新しい。我が国の元号は、「平成」まで基本的に中国の古典籍を出典としていたが、この「令和」は日本の古典籍である『萬葉集』を出典としたからだ。その出典は「巻五」の「梅花の歌三十二首」に附された「序」で、それは漢文であった。大和言葉の創造物としての「うた」のグループに、堂々たる漢文による「序」を附すことの文化事象は、日本語の表記史を考えるうえでまことに興味深いものがあるが、今は措く。

あらためて言うまでもないが、『萬葉集』は、全二十巻、歌の総数は、四千五百首という大規模なものである。ただし、その成立は、いくつかの段階を経ていることは確実と言っていい。

全二十巻の最終的な成立は、集中最後の詠歌が、大伴家持の「天平宝字三(759)年正月」の時の詠であることから、759年以降であるとは言い得るであろう。しかし、家持の死は、延暦四(785)年八月二八日と伝えられるので、文学史などでは、『萬葉集』の成立については、759年から785年までの間、などと説明されることが多い。

しかしながら、ここで注目すべきは、冒頭「巻第一」である。収載の和歌を見るとすぐにわかることだが、雄略天皇の時代から藤原京時代までのものがほとんどで、平城京(寧楽宮)時代のものは、わずかに一首のみである。つまり、実質的に、平城京(奈良)時代の和歌は存在しないのである。これは、諸氏が指摘されるように、「巻第一」の編集が、平城京遷都(710年)直後であったことを物語っているのである。 

この国の、いわゆる「中央集権国家」としての態勢が完成したのは、「平城京遷都」をもってその時と考えるべきであろう。すでに大宝元(701)年に完成した「大宝律令」に基づいた実質的な統治がすすめられ、我が国で初めてとなる「国家」の威容を、唐の長安城に倣って内外に示したのが「平城京」であった。

「国家」は、言うまでもなく対外的に機能できなければならないが、そのためにも国内的な統治を強力に推し進める必要があった。諸豪族を「都城」に住まわせることで、彼らの経済的な自立を断ち、さらに、長くこの列島に存在し続けた「王」(大君)たちを、「大和の王君」の下部に組み入れねばならなかった。つまり、列島の諸王たちと「大和の王」との絶対的な差異化の必要があったのである。そのために、大和の「大君」は「天皇」とならねばならなかった。

『萬葉集』「巻第一」は、この国に誕生した「天皇」の、その高らかな宣言のための「歌集」であったと言っていい。


 

2020.7.11 河地修

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