『古今和歌集』を考える
『古今和歌集』のメッセージ(五)
没収後封印された『萬葉集』と封印を解いた平城天皇
平城京遷都(710年)直後に編纂されたであろう「萬葉巻一」から、その後まもなく「巻二」が成立したことはほぼ間違いのないことである。しかし、その後、現行全二十巻にまで、具体的にどのような過程を経て拡充していったのかはよくわからない。ただ、確実に言えることは、それが、最終的に全二十巻のかたちで編集されたということ、そして、その最終編集者が大伴家持であったであろう、ということである。
『萬葉集』の最後の歌が天平宝字三年(759)正月の家持詠で、その家持は785年に死去しているから、つまりは、759年から785年までの間に最終的に整えられたのであろう。ただその後のことは、断片的にしか情報がなく、詳細は不明としか言いようがない。が、家持が最終編集者であった以上、少なくとも、その時までは家持の手元にあったのではないかと思われる。その後、朝廷に移管するところとなったと思われるが、それは、おそらく「没収」というかたちではなかったか。
すでに周知のことだが、長岡京遷都(784年)の翌785年9月に、造長岡京使藤原種継が暗殺された。この事件で逮捕されたのが大伴継人らであり、彼らの供述から、事件を主導したのは、すでに死去していた大伴家持であったとされたのである。真相は藪の中であるが、家持は、この事件により、官籍から除名された。
この除名処分の時に、家持の邸宅に『萬葉集』があったとすれば、それは、朝廷に没収されたはずで、しかも、その後封印されたに違いない。したがって、『萬葉集』は、誰の目にも触れることのないかたちで、平安時代初頭を迎えたと言えるのである。
しかし、この状況を大きく変えたのが桓武天皇から平城天皇への御代替わりであった。桓武は、806年に崩御したが、皇太子であった平城は、その桓武崩御の日に、桓武によって処断された多くの官人を復位させたのである。その中に家持がいた。「うた」の帝であった平城天皇は、この家持の復位に伴い、『萬葉集』の封印を解いたことになる。平安朝、『萬葉集』は、平城天皇によって、晴れてその存在が公認されたと言っていい。
このように、『萬葉集』を公式に蘇生させたのが平城天皇であるという意味において、後に『古今和歌集』「序」が、『萬葉集』を平城天皇の「勅撰」とする見方を提示するのは、けっして間違いではない。
平城天皇は「うた」の天皇だった
平城天皇は「うた」の天皇であったから、あるいは、その後の日本文学史は、その方向へと向かうことになったかもしれない。しかし、平城は、わずか3年で弟の嵯峨天皇に譲位(809年)、さらに、その翌年の、いわゆる「薬子の変」(810年)により、その方向は大きく変わることとなった。
薬子は、平城天皇の后の母親で「尚侍」であったことから、天皇に最も近侍する存在として力を振るった。薬子の父は、785年、長岡京で殺害された式家藤原種継であった。薬子の変の背景には、種継の死により弱体化した藤原式家の再興問題が絡んでいるのだが、このことは、今は措く。
平城天皇が「うた」の天皇であることは、次の『古今和歌集』に載せる「御歌」(巻一「春歌下」)からも明白である。
平城(なら)の帝の御歌
ふるさととなりにし平城(なら)の都にも色は変はらず花は咲きけり
(平城天皇の御歌
今は旧都となって寂れてしまった奈良の都にも、その美しさは昔と変わることなく、今年も桜の花は咲いたことよ)
平城京を「ふるさと」(旧都)と呼んでいることから、この歌は、平城が上皇となり、平城故京に滞在していた時のものか、あるいは、薬子の変を受けた出家後のことか、その詳しい作歌の事情は明らかではないが、いずれにせよ、「上皇」時代の詠であることは動かない。詞書の「平城の帝の御歌」という形式は、『古今和歌集』の詞書表記の原則から言えば「御製」として収載されたものだが、平城譲位後の零落した旧都での生活から生まれたものである。
譲位後の平城旧都での上皇とは逆に、平安新京では、嵯峨天皇の力が圧倒的な王権とともに確立された。嵯峨は、兄の平城とは対照的に、この時代の先進の文明であった唐文明に憧れた。その結果、当然のこととして、文学は、和歌ではなく、漢詩が隆盛するところとなった。すなわち、いわゆる唐風謳歌時代の到来であった。