『古今和歌集』を考える
『古今和歌集』のメッセージ(七)
「真名序」の「続萬葉集」
九世紀、和歌は唐風文化に押され停滞したかに見えるが、しかし、けっして人々に詠まれなくなったわけではなかった。「仮名序」が、「うた」の歴史について、
このうた、あめつちのひらけはじまりけるときより、いできにけり。
(この歌は、天地開闢の時から、生まれたのであった。)
と記すように、世界の始源とともに「うた」は存在したのであって、それは、「うた」の根源的性質と言うべきものであった。先に「仮名序」が、「うた」の本質として「いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける(この世に生を受けたもので、だれがうたをよまないということがあろうか)と述べたように、命を有するすべてのものが「うた」をうたうというのであるから、たとえ、一時的に衰退しようとも、「うた」は、常に詠い継がれるものでなければならなかったのである。
したがって、この国の「うた」の歴史は、連綿と続くものでなければならなかった。九世紀の和歌の歴史が、仮に公的という意味において「空白の歴史」であったと言うならば、十世紀初頭(905年)に「公」の作品として誕生した『古今和歌集』は、まさしく『萬葉集』に続く存在でなければならなかったのである。
したがって、「仮名序」が、
萬葉集にいらぬふるきうた、みづからのをもたてまつらしめたまひてなん
(『萬葉集』に入らない古歌、今上帝の時代の和歌をも献呈させなさった)
と言うのは、『古今和歌集』が、『萬葉集』以降の和歌を積極的に収載するという姿勢の表明であった。このことに関する「真名序」の記述は、「仮名序」とは若干の異同を呈している。本来漢文だが、書き下し文で次に示してみよう。
ここに、大内記紀友則、御所所預紀貫之、前甲斐少目凡河内躬恒、右衛門生壬生忠岑等に詔して、各々、家集竝びに古来の旧歌を献ぜしめ、続萬葉集と曰ふ。ここにおいて、重ねて詔有り。奉れる所の歌を部類し、勒して二十巻となし、名づけて古今和歌集と曰ふ。
(そこで、大内記紀友則、御所所預紀貫之、前甲斐少目凡河内躬恒、右衛門生壬生忠岑等に命ぜられて、各々の、家の歌集、並びに古くから伝来している旧歌を献上せしめ、それを「続萬葉集」と云う。そして、重ねての御勅命が下った。献上されたところの和歌を部類して二十巻とし、それを名付けて『古今和歌集』と云うのである。)
醍醐帝が、四人の撰者に撰進を命じたくだりだが、「各々、家集竝びに古来の旧歌を献ぜしめ」とある記述は、「仮名序」では、上に引いたところの「萬葉集にいらぬふるきうた、みづからのをもたてまつらしめたまひてなん」に相当する。つまり、正式な「序」としての「仮名序」では、「家集竝びに古来旧歌」という語句が削除されたということになろうか。「仮名序」では、これらを全体として「萬葉集にいらぬふるきうた、みづからの」と言い換えたものと思われる。
この変改に深い意味はあるのか、という問い掛けに対して今明快な答えは見出しがたいが、少なくとも言えることは、「真名序」から消えた語句が「家集竝びに古来旧歌」であることは指摘できるであろう。
この「家集」という言葉であるが、この時代の言葉としては、「家の集」(いへのしふ)である。『拾遺和歌集』に見える用例として「天暦の御時、伊勢が家の集召したりければ」とあるのは、村上天皇の『後撰和歌集』撰進時に、歌人伊勢の「家の集」を提出させなさった、というもので、事情は、『古今和歌集』の「真名序」が伝える経緯と同じと言っていい。とすれば、『古今和歌集』撰進にあたっては、四名の撰者たちの「家の集」はむろんのこと、その他の有力歌人たちの「家の集」も、その提出が命ぜられたものと思われる。さらに言えば、それらの「家の集」以外の「古来旧歌」(「詠み人しらず」の歌である)も採収されたわけで、それら全体の歌数は、膨大な数に上ったに違いない。
「真名序」によれば、これらの採収されたところの「家集竝びに古来旧歌」を、実はそのまま「歌集」にする考え方があったものと推測される。そして、その場合の歌集名も決まっていたわけで、それが「続萬葉集」だったのである。この作品名は、平城天皇の『萬葉集』に続く「勅撰和歌集」として、まさに九世紀の和歌の歴史を明示するものとしてふさわしかったと思われる。
しかし、この「続萬葉集」の制作は、現実的にはすぐに頓挫したものと思われる。収集された和歌が膨大な数に上ったはずで、これらを集めて一つの「勅撰和歌集」として纏めることは、おそらく物理的にも難しかったのではあるまいか。そこで醍醐天皇より「重ねて詔」が発せられたのであった。
その二度目の「詔」が、「奉れる所の歌を部類し、勒して二十巻」とすることだったのである。どのように「部類」されたのかについては、周知のとおり「仮名序」におおまかに記述されているが、ともかく、「部類」され「二十巻」に「勒」された作品こそが『古今和歌集』であったということになる。したがって、『古今和歌集』の本質は、この「部類」の意味を考えねばならないということになるが、ただ、少なくとも、歌集名の「古今」については、前段階の「続萬葉集」の精神を受け継いだものとは言い得るであろう。
このように、「続萬葉集」段階において収集されたところの「家の集」は、『古今和歌集』制作段階において、「部類」されたのであった。このことは、別の言い方をすれば、「家の集」は、この時、観念上「解体」されたと言わなければならない。『古今和歌集』は、「各々」の「家の集」を解体することによって誕生した「勅撰和歌集」でもあったのである。