『古今和歌集』を考える
『古今和歌集』のメッセージ(十六)―「桜詠歌」の光と影(3)
『伊勢物語』「渚の院」での「桜詠歌」、あるいは立太子争いのこと
ところで、「渚の院」におけるこの業平の「桜詠歌」は、『伊勢物語』「82段」に載せるものである。これは「惟喬親王章段」の考察として本hpの「伊勢物語コラム」で扱わねばならぬものだが、ここでも取り上げておきたい。『伊勢物語』の中でも最も長大な章段となるが、当該詠歌に関わるところに限定して、以下掲げてみよう。
昔、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に、宮ありけり。年ごとの桜の花ざかりには、その宮へなむおはしましける。その時、右の馬の頭なりける人を、常に率ておはしましけり。時世経て久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。狩はねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ、大和歌にかかれりけり。今狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとに降り居て、枝を折りて、挿頭にさして、上、中、下、みな歌詠みけり。馬の頭なりける人の詠める、
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
となむ詠みたりける。また人の歌、
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき
とて、その木のもとは立ちて帰るに、日暮れになりぬ。―以下略―
(昔、惟喬親王と申す親王がいらっしゃった。山崎の向こうに、水無瀬という所に、宮があった。年ごとの桜の花ざかりには、その宮へお出でになられたのであった。その時、右の馬の頭であった人を、いつも連れてお出でになられたのであった。時節が経過して長くなってしまったので、その人の名は忘れたのであった。鷹狩は熱心にもせずに、酒をばかり飲んでは、大和歌を詠むことに熱中したのだった。その頃鷹狩をする交野の渚の家で、その院の桜は格別に美しい。その木のもとに馬から降りて座り、桜の枝を折って冠に挿して、身分の上中下を問わず皆が歌を詠んだのだった。馬の頭であった人が詠んだ歌、
世の中にまったく桜がなかったならば、春を過ごす心はどんなにかのどか なものであっただろうに
と、詠んだのであった。また別の人が詠んだ歌、
散るからこそいっそう桜は素晴らしいのだ、この辛く苦しい世にどうして長く咲いていることがあろうか
と詠んで、その木の下は立って帰ると、日暮れになった。)―以下略―
ここに掲げた82段の物語文は、分量はともかくとして、『古今和歌集』の53番歌(業平の桜詠歌)の詞書と重なるという事実は認められるであろう。しかし、その分量の差があまりにも大き過ぎるので、その直接的関係は不明とすべきかもしれない。ただ、そのことは別にして、82段は、その底流にあるものとして、一つの方向性を認めざるを得ないのである。その方向性とは、『古今和歌集』の「52番歌」と「53番歌」との隣接する配列関係に認められた、惟喬親王の立太子争いにおける敗者側の厭世的詠嘆と言っていい。
ここでは、業平詠「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」の歌とともに、それに続く「また人の歌」として掲げられた「散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき」に注目すべきであろう。和歌の下の句の「憂き世」という表現には、この渚の院に集う惟喬親王とその周囲の面々の心情が示されていると言うべきであって、この82段の時代は、惟喬親王の立太子争いの敗北後のこととしなければなるまい。82段が、そのまま連続するかたちで83段に続き、その83段の後半において、惟喬親王の出家の場面へと続く所以でもある。
そして、その「時代」を明確に示すものが、「その時、右の馬の頭なりける人を、常に率ておはしましけり」という一文であろうと思われる。この表現は、「その時」の業平が、「右の馬の頭」という官職であったことを示しているのである。業平の「右の馬の頭」の時代とは、惟喬親王にとっては、立太子争いの敗北による失意の時代であったと推測することが可能である。惟喬親王の立太子争いの敗北を時間軸とした小年譜を、次に示してみよう。
承和11年(844) 惟喬親王、誕生 嘉承3年(850) 仁明天皇、崩御(3月21日)
惟仁親王、誕生(3月25日)
文徳天皇、即位(4月17日)
惟仁親王、立太子(11月25日)天安元年(857) 藤原良房、太政大臣(2月19日)
惟喬親王、元服(12月1日)天安2年(858) 文徳天皇、崩御(8月27日)
清和天皇、即位(11月7日)
良房、天下の政を摂行貞観7年(865) 在原業平、右馬頭 貞観14年(872) 惟喬親王、出家(7月11日) 貞観17年(875) 右馬頭業平、右近衛権中将
この惟喬親王と惟仁親王の立太子争いは、多くの歴史書で言及されることが多いが、『日本文徳天皇実録』を始めとする「国史」(正史)に記述があるわけではない。しかしながら、『源氏物語』で紫式部が光源氏に語らせているように、「日本紀などは、ただかたそばぞかし」(日本の正史などは物事の片側だけを記したものだよ)という認識の方が、あるいは正しい、とするならば、国史以外の史書類が言及するところのものを軽視してはなるまい。
ところで、この立太子争いの最大の要因として、当時すでに没落氏族であった紀氏側に、紀氏再生の絶好のチャンスと捉える思量が働いたことは言うまでもなかろうが、しかし、それと同時に、古くから、文徳天皇自身に「天皇には惟喬立太子の希望があった」(『国史大辞典』・山口英男)という見方があるように、その第一皇子である惟喬親王への天皇個人の鍾愛が働いたと見ることは可能であろう。
となれば、文徳天皇の在位中は、惟喬親王の立太子の可能性も完全には捨て切れなかったと考えていい。しかし、その期待は、天安2年(858)8月27日の文徳天皇の突然の崩御によって、完全に潰えたのであった。
先に掲げた小年譜を見て分かるように、業平の「右の馬の頭」時代は、文徳天皇崩御の8年後、貞観7年(865)から始まっている。まさに、惟喬親王をめぐる紀氏周辺の「憂き世」への厭世的詠嘆は深いものがあったに違いない。82段に続く83段の後半、貞観14年(872)の惟喬親王の出家の場面は、その悲しみの痛切極まるものであった。
『伊勢物語』「82段」も、『古今和歌集』の「52番歌」と「53番歌」との隣接する配列関係も、そこには、栄華を夢見つつも敗れし側の精神が底流していることを確認しておかねばならないのである。なお「83段」についても、同様のことが指摘できるが、ここでは省筆する。
2022.9.11 河地修
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