『古今和歌集』を考える
『古今和歌集』のメッセージ(十七)―「御製」をめぐる問題(1)
「御製」が平城、光孝天皇だけなのはなぜか?
ところで、『古今和歌集』には、「勅撰和歌集」撰進を命じた醍醐天皇の御製はない。このことについて理由を挙げるとすれば、初の「勅撰和歌集」である『古今和歌集』は、醍醐天皇が、自身のもとに「和歌」を献呈させる、というあり方のもとに成り立ったものであるから、ということになるであろう。醍醐天皇以外の天皇のものは、その数は少ないが、ないわけではない。
『古今和歌集』には、次の天皇の御製が収録されている。収載順に詞書とともに掲げてみよう。
21、(巻一、春上)
仁和の帝、親王(みこ)におはしましける時に、人に若菜たまひける御歌
(光孝天皇が、親王でいらっしゃった時に、人に若菜をお与えになられた時の御歌)
君がため春の野に出でて若菜摘むわがころもでに雪は降りつつ
(あなたのために、春の野に出て若菜を摘む、その私の着物の袖に、雪が降っては止み、降っては止みしていることだ)
90、(巻二、春下)
平城(なら)の帝の御歌
(平城天皇の御歌)
ふる里となりにし奈城の都にも色はかはらず花は咲きけり
(今は旧都となって荒れてしまった平城の都にも、花の美しい色は変わることなく、今年も咲いたことだ)
347、(巻七、賀)
仁和の御時、僧正遍照に七十(ななそぢ)の賀たまひける時の御歌
(光孝天皇の御代、僧正遍照に七十歳の祝賀をお与えになられた時の御歌)
かくしつつとにもかくにも永らへて君が八千代に逢ふよしもがな
(このようにあなたの七十歳のお祝いをしながらも、思うことは、なんとかしてこれからも長生きをして、あなたの八十歳のお祝いの時に逢いたいものです)
『古今和歌集』が載せる御製は、以上の三首で、具体的に言えば、平城天皇の一首と光孝天皇の二首ということになる。醍醐天皇自身の御製がないのは、前述のとおりであるが、醍醐の父である宇多上皇の御製がないのはなぜだろうか―。宇多上皇こそ、数々の歌合を主催した天皇であり、その詠歌も多いからである。
しかし、この宇多上皇の場合も、醍醐天皇と同様な論理からその詠歌は収録されなかったのではあるまいか。延喜5年(905)の『古今和歌集』撰進時、宇多上皇は存命中(崩御は931年)であって、「太上天皇」は、時の「天皇」と同列に遇される必要があったと思われる。となると、『古今和歌集』には、平城と光孝、二人の天皇の御製のみが採録されているのであり、このことの意味は小さくない。平城から光孝までの和歌史は、「天皇の御前」という前提で言うならば、ほとんど空白の時代であったからだ。
つまり、この二人の天皇について、和歌史の観点から捉えるならば、それは、「やまとうた」の継承に、重要な役割を果たした天皇ということなのである。平城天皇は、『古今和歌集』の「両序」において、勅撰としての『萬葉集』撰進を命じた天皇であるとの見解が示されている。また、薬子の変(810年)により、平城上皇方に勝利した嵯峨天皇から「唐風謳歌の時代」が開始されたことは言うまでもないが、この嵯峨天皇以降の歴代の天皇において、光孝天皇が、初めて和歌を公的世界に復活させたことは注意しなくてはならない。
この光孝天皇の和歌史における役割は、『伊勢物語』「第114段」に描かれる「芹川行幸」(886年)の場面に詳しい。このことは『伊勢物語』だけではなく、『後撰和歌集』『日本三代実録』にも取り上げられる歴史的事実でもあって、このことについては、別稿を用意したい。
2023.1.1 河地修
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