『古今和歌集』を考える
『古今和歌集』のメッセージ(十八)―「御製」をめぐる問題(2)
「二条の后」詠歌の詞書
ところで、『古今和歌集』の「御製」については、その詞書に特徴があることが古くから指摘されている。先に検討した「御製」三首の詞書を掲げてみよう。
21、(巻一、春上)
仁和の帝、親王(みこ)におはしましける時に、人に若菜たまひける御歌
90、(巻二、春下)
平城(なら)の帝の御歌
347、(巻七、賀)
仁和の御時、僧正遍照に七十(ななそぢ)の賀たまひける時の御歌
これら三首の詞書の特徴は、文頭に「天皇」の御代、あるいはその尊号を明示し、文末を「~御歌」で括る、という体裁を取る。つまり、詠者名表記は、詞書の冒頭に提示され、一般の歌のように、詠者名が独立して表記されることはない。
これらの三首の「御製」は、厳密に言えば、21番歌は、光孝天皇が「親王」であった時の詠歌で、「天皇」に即位してからのものではない。また、90番歌は、確証はないが、平城天皇が、退位後上皇として旧都奈良に帰った時の詠歌に間違いはあるまい。一方、347番歌は、光孝天皇の、天皇在位中の詠歌であることは動かしようがない。在位中であれ、それ以外であれ、つまりは、これら三首は「天皇となった人物」の詠歌と言うことができよう。
ところが、このような形式を踏むものが、天皇の詠歌(御製)以外に、「巻一」「春上」の4番歌に認めることができる。二条后藤原高子の詠である。以下に示す。
4、(巻一、春上)
二条の后の春のはじめの御歌
雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙今やとくらむ
(まだ雪が残っているうちに、春が来てしまったことだ、鶯の冬の間凍っていた涙は、今頃は溶けていることであろうか)
この詞書は、詠者名「二条の后」を冒頭に提示、末尾に「御歌」で閉じるという「御製」の詞書表記の原理と同一と言っていい。このことから、「天皇・皇后の場合は、必ず作者名が詞書中に記される」という解説(『新潮日本古典集成古今和歌集』奥村恆哉)がなされるのであるが、『古今和歌集』撰進当時、実は、二条后藤原高子は、厳密に言えば、皇后の身分とは言い難かった。
高子は、承和9年(842)の生まれ、藤原長良(冬嗣の子)の娘で、兄に基経、国常がいるが、やがて、兄弟は、北家の氏の長者である叔父の藤原良房の養子となった。つまりは、高子は、北家の政治基盤の安定のために、いずれは「后」として入内すべき運命を担っていた人であった。その高子の「ただ人」時代に、在原業平が、秘密裡に通ったと暴露するのが、『伊勢物語』の「二条后章段」であるが、『古今和歌集』成立時には、『伊勢物語』はまだ世に出てはいなかった。従って、『古今和歌集』に載せる高子のイメージを、『伊勢物語』に求めてはならない。
延喜5年(905)当時の高子のイメージは、おそらく、寛平8年(896)東光寺僧善祐と密通したとして皇太后を廃されたことが、その印象として強かったのではないか。この皇太后停廃は、高子が死去(910年)してからも続くもので、それが復せられたのは、死後33年が経過した天慶6年(943)5月27日のことであった。
したがって、『古今和歌集』成立時には、高子は、皇太后ではなかったことになり、「二条后」と呼ぶことを含めて、詞書を「御製」と同一形式にすることは憚られるものがあったに違いない。にもかかわらず、「勅撰」の『古今和歌集』「巻一」「春上」に堂々と掲載されるにあたっては、奥村恆哉氏が指摘するとおり(『新潮日本古典集成古今和歌集』)、「特別のはからいがあったもの」と考えざるを得ないであろう。
この「特別のはからい」とは、むろん、最終的には、醍醐天皇の勅許を必要とする性質のものであったはずだが、これは、撰者の紀貫之の判断に拠るところのものが大きかったのではあるまいか。
2023.3.4 河地修
この稿続く
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