講義余話
日向の国にて(一)
はじめに
日本の古代を読み解くキーワードの最たるものは、なんといっても「大和朝廷」である。そして、「大和朝廷」の核としての存在は「天皇」であり、それらについての特質を理解することは、古代の日本文学文化を正しく理解するためには必須のことと言わなければならない。
以前から「大和朝廷」の故郷である「日向」には、その特質を解くヒントがあると考えていたが、今回、ようやくその土地を訪れることが実現した。現実の風土を歩くことは、文献に描かれる記述の「向こう側の真実」を、体感的に推理し透視することが可能であって、以下の小稿は、「日向」を歩きながら「大和朝廷」の原点に思いを致してみたものに過ぎない。
「大和朝廷」のふるさと
言うまでもないが、「大和朝廷」という言辞は、その集団が「大和」を拠点としたことに基づく。彼らは「大和」に来る前は、「日向」(現在の宮崎県)にいた。いわゆる記紀神話の「神武東征」のくだりがそのことを物語るが、なぜ「日向」から「大和」を目指したのかは、よくわからない。記紀の記述に拠れば、「大和」に入るに当たって相当な戦いがあったようだから、つまりは、「命懸け」の大和への移住だったことになる。よほどのせっぱ詰まった事情があったと見るほかはないが、そのことは、今は措こう。
伝承に拠れば、この「大和朝廷」の「祖」(天照大御神の孫の「邇邇藝命)は、天上の「高天原」から「豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)―豊かに葦の生い茂る湿地帯」を目指して、「筑紫」の「日向高千穂」に「降臨」した、ということになっている。いわゆる「天孫降臨」という神話だが、現実的な言い方をすれば、遥か昔、別の土地から稲作農耕に適した土地(水の豊かな土地)を求めてやって来た、ということになるであろう。では、どこからやって来たのかと言えば、むろん天上からパラシュートで降りてくるはずもなく、そのもとの土地とは、遥か異境の地であったことを言っているに違いない。その土地を、不本意ながらも、出て来なければならなかった、ということではないのか。
この国が、歴史上、まがりなりにも、初めて「統一国家」として成立した時期は「大化改新」(645年)と呼ばれる政治変革期であるから、それまでは、この列島に渡って来た人々については「渡来人」と言ったほうがよい。
渡来人―縄文後期から間断なくこの列島に渡来した人々は、主として稲作農耕の技術とそれに基づく生業(なりわい)をもたらした。彼らは、もとから日本列島に住んでいた人々(「縄文人」と言ってもいい)と衝突や融和を繰り返しながら、さらに言えば、長い「時」の集積とともに、縄文人系列、渡来人系列が、複雑かつ重層的に融合し、漸進的に、いわゆる後世で言うところの「弥生人」となっていったのである。彼らは、主として「稲作農耕」を生活の基盤に置く壮大な「文化」を造り上げていった。「弥生文化」というものがそれであって、やがてこの文化のリーダー的存在としての勢力を確立したのが、「大和朝廷」と呼ばれる集団であったことになる。
渡来人はどこから来たか
ところで、列島への伝来文化の代表である「稲作農耕文化」=「弥生文化」をもたらした人々は、具体的にどこから来たのであろうか、そして、彼らは、どのような目的で、またどのような理由で、この列島に来たのであろうか、という問いかけは、あらためて詰めておかねばならないことのように思われる。
彼ら(おおざっぱに「渡来人」と言っておく)は、間違いなく、もともと稲作農耕の土地からやって来たことは動かない。当時、この列島の近くで稲作農耕に従事していたのは、朝鮮半島、あるいは中国大陸の南部に住む人々であった。その中でも、紀元前から7世紀後半に至る古代朝鮮半島の政治情勢はきわめて不安定であったから、そこでの党争に敗れた人々は、生きるために、集団で脱出するほかはなかったであろう。その場合の亡命先は、北方の大陸の奥地もあったであろうが、稲作に適した土地を目指すには、半島の先にある海の彼方に向かうしかなかったと思われる。つまり、渡来人を核とする「弥生人」は、多段階的に、朝鮮半島の南端から島伝い(対馬・壱岐)に九州地方にやってきたのであった。したがって、その圧倒的多数は、早くから九州地方を中心とする西日本各地に定住していったと思われる。
「大和朝廷」の「祖」である集団は、弥生時代のどの時期の渡来人であったのかわかりにくい。ただ推測として言えることは、その渡来の時期は、この列島において、すでに「米作り」=「稲作農耕」の生活が行われていた時代ではなかったか、ということである。たとえば、九州地方の縄文晩期の遺跡から稲作農耕の痕跡が複数確認されていることは、その開始がかなり早い時期だったことを物語っている。さらに言えば、おそらく、「大和朝廷」の「祖」が、「高天原」から「豊葦原瑞穂国」(「葦原中国」と同じ概念である)を目指し、日向の「高千穂」にやって来たという神話の基本構造は、彼らが、米作りが行われている土地を目指し、結果的には「高千穂」に落ち着いた、ということを言っているものと思われる。そのうえで、「高千穂」へ「降臨」するという話は、すくなくとも、目指すべき「葦原」に、彼らは、当初定着できなかったということを示しているのではなかろうか。なぜならば、「高千穂」周辺(現在の高千穂町)では、今日もその高台の盆地で見事に稲作が行われているが、しかし「葦原」というイメージとはずいぶんと遠いものがあるからである。つまり、彼らは、あくまでも「葦原」を目指しつつも―九州各地の河川が形成するところの豊潤な平野部を目指しつつも、そこには、すでに先行の弥生人たちが稲作を行っていたのではないかと思われるのである。
さて、この「大和朝廷」の「祖」は、なぜこの列島を目指したのか、という問題であるが、それは、わかりやすく言えば、「生きるための」集団移住ということだったのではないか。このあたりは、想像力を駆使してゆくほかないが、彼らは、何らかの理由で、もとの国では生きてゆくことが困難な状況となった人々であったに違いない。その土地で満足な生活を謳歌していた人々が、命懸けの危険を冒してまで海を渡るということはあり得ないからである。
遥か古代、少なくとも、日本列島へ渡るにあたっては、海以外何ら障壁となるものはなかった。彼らは、小舟を操りながら、果敢に海を渡ったのである。目指す所は、東方の海の彼方にある、生きる希望に満ちた「豊葦原瑞穂国」なのであった。
建国神話とは、建国に当たっての要因とその過程を、遥か後世、「負」から「正」へと明暗置き換えて創造したものに他ならない。
2019.9.1 河地修
この稿続く
一覧へ