講義余話
日向の国にて(二)
弥生人と渡来人
日本民族のアイデンティティ形成の核に、稲作農耕を主要な生業(なりわい)とする「弥生文化」を据えることは、まず異論のないところであろう。そして、さらに言えば、その担い手である「弥生人」の主要粗形の一部として、いわゆる「渡来人」を指摘することも否定しようのないところと思われる。
繰り返すが、「弥生人」の生活様式を基底するものが「稲作農耕」である以上、それをもたらしたのは、はるか昔から継続して多段階的にこの列島にやってきた「渡来人」であったことは動かないのである。したがって、この列島における民族形成の要素としては、渡来人の存在を無視することはできない、ということになる。
この渡来人たちの日本列島への流入ルートは、朝鮮半島から北部九州へ渡る海路がごく一般的であったと思われるが、なかには、奈良時代に積極果敢に東シナ海を行き来した遣唐使船のように、遥かな海洋を一気にこの列島にやってきた中国大陸からの渡来人たちもいたであろう。さらに言えば、中国大陸北部から日本海を横切り、列島の日本海側の各地にやってきた渡来人もいたはずである。しかし、やはり、なんと言っても圧倒的に多かったのは、朝鮮半島の南端から島伝いに、九州へと渡るルートであった、と考えるのがより自然なことではあろう。
ただし、このことは、誤解のないように精緻に考えておかなければならないが、だからといって、「日本民族」の粗形を、単純に朝鮮半島に求めるというような考え方はどうであろう。たとえば、明治期以降に唱えられた「日朝同祖論」なるものは、慎重に考えるならば、やはり理屈が招いた短絡的な言い方であったように思われる。
縄文の昔から、この列島にはすでに多くの人々(縄文人)がおり、そこに多段階にわたる、複数ルートの渡来人たちが交わり、徐々に列島の風土の中で「民族」の醸成が行われていったのである。総称としての、いわゆる「弥生人」という呼称は、その復層的醸成の結果に過ぎないのであって、単純に、「弥生人=渡来人」でないことは明白なことである。
私は、大和朝廷が制作した「記紀神話」のうち、「天孫降臨」のくだりに注目している。むろん、文字どおり天上から降りて来るはずもなく、地上のどこかからやって来たのを、天上から降りた、と表現したものと思われる。つまり、遠く離れた世界からやって来た、との「謂い」のように思われる。
このことは、当時とすれば、海を渡って来た、と推測するしかないのではないか。さらに、それは、海の向こうの、稲作農耕の土地からやって来て、さらに、新しい世界(日本列島である)で稲作農耕を目指した、と考えるしかないのではないか。だとすれば、彼らは、朝鮮半島からの渡来人であると考えることのほうがわかりやすい。少なくとも、後の大和朝廷を形成する人々の一部として、あるいは、その核として、そこに、渡来人の存在を想定することは間違いではあるまい。当時、すでに、この列島には稲作農耕の民(弥生人)が先住しており、そこにやって来たこの渡来人たちは、後の、この列島の歴史の形成に、多大な影響を与えるほどの成長を遂げた、とは言い得るであろう。むろん、この時の渡来人たちが、そのまま単純に成長を遂げていった、というわけでは、けっしてない。
天孫降臨と高千穂―延岡から高千穂へ
今回の旅では、私は、延岡から高千穂へと向かうことにした。肥沃な延岡平野を形成する五ヶ瀬川を遡上すると、そこが高千穂であって、遥か昔のこと、渡来人たちは、この五ヶ瀬川を上流へと遡って行ったのではないかと、想像をたくましくするのである。
地図で確認すると分かることだが、高千穂への行路は、この五ヶ瀬川を舟で遡るか、後背地の阿蘇を通過して入るしかない。しかし、阿蘇を通過するコースは、当たり前のことだが、まず阿蘇を目指さなければならない。だが、はたして、遥か古代、稲作農耕の土地を捜して、恐ろしい火の山を目指すことが行われたかどうか―。
彼らは、やはり、河川がその下流に形成するところの湿地帯(豊葦原)を、最初は目指したものと思われる。そして、その土地が、すでに先住者により水稲耕作が行われていた時、彼らは、その下流から舟を遡上させ、さらに上流にあるという高千穂の台地を目指すことを勧められたに違いない。まだ手つかずの土地が、この川上の台地にある、と平野部の民に教えられたかどうか―。教えられたとすれば、彼らは、そこにあるという稲作に適した土地を求めて、ひたすら舟を遡上させたことであろう。
延岡から高千穂へは、国道218号線を車で走ることになる。かなりの勾配を、谷沿いに登って行く。その道路は、途中からいくつもの急峻な谷をまたぐ吊り橋を渡ることになるが、はるか古代は、むろんこのような橋はない。谷底を流れる五ヶ瀬川の急流を、ひたすら舟で遡ったに違いない。
五ヶ瀬川の支流日之影川に架かる青雲橋(国道218号線)を望む |
霧が立ちこめる高千穂の小盆地に、やがて私どもの車が入りつつあった時、私は、思わず、驚きの声をあげてしまった。そこにあるのは、小規模ながらも、みごとに水稲が植え付けられている青々とした水田の風景であった。高千穂の小盆地に、整然と山間を縫って存在する稲作の印象は、まるで、雲海を抜けた山上に、天上の別世界が現われ出たかのような感覚であった。
山の上に、ささやかではあるが、「盆地」があるではないか―、そう思った私は、遥か古代、大和朝廷の「祖」をなす一団が、五ヶ瀬川を遡り、やがてこの台上の土地を見つけた時のことを想像してみた。
五ヶ瀬川を遡上した彼らは、まさに今言うところの「高千穂峡谷」にたどり着いたであろう。その時、まるで地の底にいるような峡谷で、彼らは絶望的な思いを抱いたに違いない。しかし、それでも、そのなかの若者が、あるいは、勇気と体力を振り絞って、光が注いでくる台上にまでよじ登ったとしよう、その時、彼は、周囲の山々から幾筋もの河川が注ぐ台地の風景を見て、思わず歓喜の声を発したことであろう。
高千穂の台地には、今なお、稲作農耕が整然と行われている。周囲の山々から水を引き、傾斜地には傾斜地の、平地には平地の、その土地の形状に即した植え付けの水田風景が広がっている。斜面を利用した階段状の水田は、棚田と言うには地味すぎる風景なのだが、しかし、そこには、現代日本の各地に見られる休耕田の荒涼たる風景とは無縁のものとして、今もなお、日本人の心に染み入るような懐かしい風景が、たしかに存在しているのである。
ここは、まさに、「高千穂国」と言うべきではあるまいか。その名のとおり、高い台地に展開する豊かな瑞穂の国が、古来変わらぬ風景として、私どもの眼前に広がっているではないか―という直感的な思いで、私は、万感の思いを禁じ得なかった。
高千穂の稲作の風景。斜面は棚田とし、周囲の山々から水を引いている |
この稿は、いわゆる記紀神話の「天孫降臨」に現れる「高千穂」が、現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町であろうとの推測に基づいている。その根拠は、何と言っても、彼らが水稲耕作に適した土地を探したはずだから、ということである。そういう観点では、もう一つの高千穂―霧島連峰の「高千穂峰」には、あくまでも稲作の痕跡を伺うことはできないのである。おそらく、後世、記紀神話の「天孫降臨」に、具体的なイメージを付与させた結果のものなのではないかと思われる。天から「降りてくる」イメージであれば、まさに、霧島の山頂はふさわしい。
別の話になるが、この霧島連峰の高千穂は、幕末時、坂本龍馬とおりょうが新婚旅行に訪れたところとして著名である。神話の具象化と併せて、それはそれで、十分におもしろい事がらではある。