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王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話


国文学科から日本文学文化学科へ(1)

平成21年5月18日

「日本文学文化」という言葉は、耳に馴染みがないのではなかろうか。この言葉が世に誕生したのは、平成12年(2000年)のことであっただろう。東洋大学文学部に、新学科「日本文学文化学科」が誕生したからである。

この東洋大学文学部には、もともと長い伝統を有する国文学科という学科があった。これは東洋大学が哲学館として発足した当時の国漢科の流れを汲むもので、その意味では、東洋大学の源流に位置する学科でもあった。卒業生も、中高の国語教師を中心に多数輩出され、教育界では一大勢力を形成するほどの存在だった。また、古典がメインではあったが、学者として活躍するものも多く、「国文の東洋」というイメージが定着していた。

この伝統と実績を持つ国文学科がなぜ日本文学文化学科へと変わったのか。その最大の理由は、いわゆる大学冬の時代を間近にして、大学間生き残り競争を勝ち抜くことであったことは間違いのないことであった。文部省(当時)もマスコミも、もともと閉鎖的かつ保守的な大学の改革を後押しする時代だった。伝統と権威にどっぷりつかる大学人にとって、自らが改革を行うなどということは生易しいことではなかったが、このままではやがて受験生が集まらなくなるという潜在的な恐怖心から、しぶしぶと重い腰を上げるような時代だった。平成10年当時、国文学科の若手教員だった私は、この機会に学科の大改革を行うことを決意した。あるいは、わずかに燻る青春の日の革命への疼くような思いが、古い大学を変えることに狂喜させたと言えるかもしれない。

当時の大学改革のテーマは、古くから強固なかたちとして残る教養課程と専門課程との分離独立形態をいかに解消するかということにあった。この分離独立形態は、とにかく時代に対応できていないものであった。学生は全員学科に所属するが、しかし、学科には所属しない多くの教養課程所属の教員が存在したのである。カリキュラムこそ多くの大学が教養と専門融合型履修スタイルを導入していたが、教員構成は旧態依然のままであった。やがて、国立大学を中心とする教養課程の解体というテーマが東洋大学にも導入された。このことが、東洋大学の改革の大きなチャンスとなったのである。

教養課程の解体、さらには、戦後の実践的女子教育を担った東洋大学短期大学の解体も、その方針が決定された。解体は混沌を生むが、しかし、混沌の中からは真の創造も生まれてくる。大学改革の最大のチャンスがここに到来したのである。

私はあらゆる智略を行使して、この改革のために行動した。学長を中心とする大学の基本方針が、私の行動を後押しもしてくれた。そして何よりも大きかったのは、学科の専任教員の中で、私が一番若かったということである。いつの時代でもそうだが、未来を切り開く原動力は若さに他ならない。早い話、組織の中で一番若いものにこそ、その組織の未来を変え得る資格が与えられているのだ。

国文学科のままではやがて立ち行かなくなる、伝統ある国文学科を今こそ勇気を持って大胆に改革しなければならない―私は、教養課程、短期大学の解体という混沌に、新学科誕生の夢を描いた。


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