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王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

大和から山城へ(1)―長岡京「水陸の便」のこと―

延暦3年(784)、桓武天皇は、大和の平城京から山城国長岡へと、遷都を断行した。長岡京遷都である。都を長岡に遷した、ということなのだが、このことは、別の言い方をすれば、奈良(大和)が棄てられた、ということでもあった。これは、驚愕すべき出来事ではなかったか。それまでの、という限定をせずとも、この国の歴史において、これほどの大事件は、なかったであろう。

遷都とは、基本的に、貴族社会のすべてが新しい都城に遷るということである。従って、この時の長岡への遷都は、大和朝廷が、その拠って立つところの「大和」を、敢然と棄て去るということでもあった。言わば、「大和」の人々が、故郷である「大和」を棄て、「大和ではない」別天地に集団移住するということであった。それまでの遷都とこの長岡遷都とが決定的に異なる点は、実はこのところにある。


長岡遷都の公式な理由については、桓武天皇自身が歴史上、明確に言葉を発している。すなわち、『続日本紀』に載せる次の言葉である

朕、以水陸之便、遷都茲邑。
(朕(われ)、水陸(すいりく)の便(たより)あるを以(も)ちて、都(みやこ)を茲(こ)の邑(いふ)に遷(うつ)す)
水陸有便、建都長岡。
(水陸(すいりく)の便(たより)有(あ)りて、都(みやこ)を長岡(ながおか)に建(た)つ)

ここで繰り返し述べている「水陸の便」とは、主に水上交通の利用ということであって、なんといっても、長岡は、淀川の本流に直接位置する都城であった。つまり、瀬戸内海航路と長岡とは、大阪湾から淀川を通して直結していた。瀬戸内海は、古代から、その山陽側の「泊り」を点と線として結ぶ海上交通の要路であったから、淀川の本流に直結する長岡京には、淀川の水上交通により、西日本各地からの運搬物(租税)が、直接搬入されることになったのである。


また、桓武は東国経営にも情熱を傾けた。言い換えれば、東国への精力的な進出(むろん侵略である)であった。8世紀中盤には、多賀城を拠点として、その近辺までを傘下とした大和朝廷は、さらに、その北方の胆沢城を拠点とする勢力圏を形成しつつあった。支配区域の拡大は、取りも直さず、国家財政の拡大を意味したのである。

そして、税収としての東国からの物資は、東国三道(東海道・東山道・北陸道)のターミナルとしての役割を果たす琵琶湖の湖上交通を通して、大津に集荷されたのである。大津からは、瀬田川の水上交通がその役割を担った。瀬田川は、京都府から宇治川と名前を変えるが、その宇治川がそのまま淀川に合流する地点が長岡であった。まさに、桓武は、東西の水上交通の帰結としての最高のポイントを選択したことになる。

桓武の長岡遷都の、大きな、そして決定的な要因が、この淀川水系にあったことは間違いのないところであろう。その10年後に長岡を棄て葛野(現在の京都盆地)、に遷ったのも、むろんその他の要素もあったにせよ、そこがこの条件に適う土地だったからである。


ただ、「水陸の便」と「東国経営」を重視したのは、桓武に始まったことではなかった。我が国初の本格都城であった藤原京を建設しながらも、わずか10年余で、平城京に遷都したのも、藤原京そのものに地勢上の問題があったにせよ、その大きな理由の一つとして、「水陸の便」と「東国経営」とがあったと思われる。

西日本から藤原京へのルートは、瀬戸内海航路を利用しながらも、現在の大阪南部(現在の堺市周辺)に上陸後は、「竹之内街道」を用いるというものであった。この西日本ルートの竹之内街道などは、遥か古代から整備が進んでいたものと思われるが、中央集権国家の成立に伴う大量輸送への対応力としては、およそ水上交通の比ではなかったであろう。

また、東国からの物資の運搬は、琵琶湖から奈良山の北麓までは河川を用いても、その後は、陸路、奈良山を越え、盆地を南北に縦断して、藤原京に行くしかなかった。これは推測になるが、当時の政権にとって、東国からの税収(物資)の運搬を、多くの人足により奈良盆地を縦断して行うということは、望ましい結果にはならなかったのではないか。

平城京は、東国経営としての観点からも、西日本各地からの増大する物資の輸送という観点からも、大和の国中、という条件のもとでは、最高の選択であった。

平城京への遷都は、藤原不比等を中心として行われたが、あくまでも大和朝廷という政権全体の意思決定というおもむきがあった。しかし、長岡への遷都の場合、これは、桓武の強力なリーダーシップにより、ほとんど独断的に行われたという印象が強い。


奈良を捨て長岡へ行かざるを得なかった事由が、桓武にはあったのである。その事由の重さが、実にあっけなく大和朝廷の故地(大和)を棄てさせるに至ったと思われる。

長岡遷都を考える場合、"長岡という土地の特殊性"と"桓武という天皇の特異性"について、考えねばならない。

奈良時代の近畿地方図

奈良時代の近畿地方図。『大日本読史地図』(昭和10年、富山房)より

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