-源氏物語講話-
第21回
大い君の死について(十)
「女はらから」と薫―もしくは、「姉妹婚」
八の宮は、薫に姫君たちの後見を切に依頼し、その確約を得た。そのことを承けて、薫は、すでに「領じたるここちしけり」(椎本)と、実質的に、婚姻の形態での後見を意識していることは動かない。しかし、物語の展開は、ある大事なことを忘れているのではないかと思われる。それは、薫が姫君たちを後見する場合、婚姻の形態を取るとは、具体的にはどのようなかたちが想定できるのか、ということである。
このことを、さらにつきつめて言うならば、二人の姫君のうち、どちらを自分の妻にするのか、という薫側の問題であり、また、どちらを薫の妻にするのかという、八の宮側の問題ではないかと思われる。ところが、八の宮も薫も、そういう現実的な「段取り」とでも言うべき事柄(常識的なプロセスと言うべきか)を意識することなく、ここでは姫君たちの後見問題を話し合っているかに見える。話題の対象は、あくまでも「姫君たち」の後見ということであり、それを薫が行うということなのであった。
しかしながら、この時点で、あえて薫の婚姻の対象を姉妹のどちらにも絞らない筆致で進められるのは、婚姻という現実的手続きに、八の宮も薫も、その核心になかなか踏み込みこむことができないという生来的な性格に加えて、ここには、いわゆる「姉妹婚」という古代の婚姻形態のイメージが重ねられているのではないかと思われる。
「姉妹婚」とは、古代の「記紀神話」に見られる英雄神話の類型の一つで、被支配者となった元の王が、自身の娘たちを、新しく支配者となった英雄(王)に差し出し、その旧来の国土の領有を保証してもらうという構造であったかと思える。その場合の英雄とは、本来的に持つところの「いろごのみ」の特性を保有しているのであるが、記紀神話以降、あるいは、現実世界においては、姉妹婚と言えるような婚姻の在り方は、基本的には姿を消したと言えるだろう。
しかしながら、その記紀神話時代の英雄に通ずる「いろごのみ」像が、ふたたびその衣装をまとって、鮮やかに王朝物語世界に登場したのが、『伊勢物語』「初段」の「昔、男」と言っていいのであった。その『伊勢物語』「初段」を下敷きにしたのが「橋姫」巻の薫の「垣間見」である以上、ここで、大い君と中の君のどちらを妻とするか、というような視点が示されないのは、あるいは、当然の物語展開と言うべきことなのであろうか。ここで念のために、あらためて『伊勢物語』「初段」の物語世界を吟味してみよう。
昔、男、初冠して、奈良の京、春日の里に、しるよしして、狩にいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。この男、かいま見てけり。思ほえず、ふるさとに、いとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。その男、しのぶずりの狩衣をなむ着たりける。
春日野の 若むらさきの すりごろも しのぶの乱れ 限り知られず
となむおひつきて言ひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ、
陸奥の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに
といふ歌の心ばへなり。
昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。
(昔、男が、歳若く元服して、奈良の京、春日の里に、そこを領有する縁から、鷹狩りに行ったのだった。その里に、とても若く魅力的な姉妹が住んでいた。この男は、垣間見をしたのだった。意外にも、寂れた旧都に、とても不釣り合いな女の美しさであったので、男はすっかり夢中になったのであった。男は着ていた狩衣の裾を切り離し、それに歌を書いて送った。その男は、信夫摺りの乱れ模様の狩衣を着ていたのであった。
春日野の若い紫草のような美しいあなた方を拝見し、私の心は、この狩衣の信夫摺の乱れ模様と同様、その乱れに限りがありません
と、間髪を入れず詠い送ったのだった。ちょうどこの時、時宜にかなったおもしろい趣向と思ったのであろうか、
源融の歌「陸奥のしのぶもぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに(陸奥の信夫摺りの乱れ模様ではありませんが、いったい誰のせいで私の心は乱れ始めたというのでしょうか、他ならぬあなたのせいではありませんか)」
という歌の情意を表現したのである。
昔人は、このようにずいぶんと乱暴で高雅なふるまいを行ったのであった。)
この「初段」の物語としての理解は、古来、主人公「昔、男」の「いちはやきみやび」ぶりに注目が集まり、この「みやび」こそ『伊勢物語』の文学的理念であるというようなことが議論されてきたのは周知のとおりである。たしかに、本段の主人公「昔、男」の「いちはやきみやび」と評価される行動には注目しなければならないし、それがこの物語の主人公像の一典型(たとえば、色好み)であることは動かない。しかしながら、一方の主人公であるヒロイン「女はらから」をどう考えるかという問題については、その考察はやや希薄ではなかったかと思われる。
この「女はらから」については、むろん古くから議論がなかったわけではないが、その多くは、「女はらから」の詳細についての素朴な疑問が多かったように思われる。これを「姉妹」と理解するのはいいとして、「昔、男」はこの姉妹のうちどちらに求愛したのか、とか、あるいは、また、どちらでもいいのだ、そのようなことに物語の関心はないのだ、というようなことであった。そして、さらに、複数の姉妹ではおかしいということから、この「女はらから」については「女の兄弟」と現代語に置き換えることができるとし、すなわち「昔、男」の「女はらから」―「男の妹」という読み方も出てきたのであった。これを一概に否定するものではないが、この場合、「昔、男」の同腹(はらから)の「妹」が旧都の奈良に住むということが分かりにくいし、また、異母妹だとしても、それを、わざわざ同腹をイメージする「はらから」という表現はふさわしくあるまいと思われる。
やはり、ここは文字どおりの「女はらから」と取るしかないのではないか。つまり、「女はらから」は「同腹の姉妹」ということ以外にはあるまいと思われる。『伊勢物語』の時代においても、男が「姉妹」に求愛するとは、現実的には考えにくいことではあるが、この物語の主人公像として、作者は、「姉妹婚」をも可能とする強烈な「いろごのみ」の主人公像を造型したのだと考えなくてはならないだろう。その強烈な印象を締めくくるものとして「いちはやきみやび」という表現があるのであって、主人公は、その激しい情熱を有する貴公子として物語に登場したのである。
さて、この「女はらから」が「姉妹」であることを前提として、この姉妹が旧都「奈良の京、春日の里」に住んでいるということに注目しなければならない。「平城京」をここで「ふるさと」(旧都)と呼び、さらに次段の第二段で「奈良の京は離れ、この京は人の家まだ定まらざりける時」としていることから、初段の時代設定が平安時代初頭のイメージであることは動かない。つまり、平安京遷都まもなくの頃という設定になるのである。
大和朝廷が784年に奈良から長岡へ遷り、さらに794年に山城に遷ったのは言うまでもない。初段の場合、平安京遷都まもなくの頃でありながら平城古京に住み続ける「姉妹」ということなのであり、この姉妹はいったい何者なのか、という問いかけは必須としなければなるまい。
平安京遷都後、平城古京に住んでいる貴族の場合、具体的に考えられるケースは二例ほどあろう。一つは、父親が地方官として当地に赴任し、娘も帯同するケースである。たとえば、『更級日記』では菅原孝標が、二人の娘を連れて上総国に赴任している事例があった。「初段」の姉妹の場合、そういうケースはまったく考えられないということはないが、住む所を「春日の里」と限定しているところから、父親が平安京から赴任している地方官とは考えにくい。とすれば、後一つの考え方は、貴族でありながらも、平安新京に遷ることができなかった弱小の貴族、すなわち「没落貴族」の家に棲む姉妹と考えるほかはない。