河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第11回
『伊勢物語』の成立を考える(五)
いわゆる「成長論」について―(2)

繰り返すが、片桐氏のいわゆる「成長論」は仮説である。それは、『伊勢物語』は大小さまざまの「歌物語」からなる集合体(歌物語集)であって、長期にわたって多くの人々が増補していった結果のものだろうという、当時漠然と存在していた考え方から出発したものである。つまり片桐氏は、誰もが漠然とそういう考え方をしていたところに、10世紀中ごろ過ぎの「業平家集」は当時の『伊勢物語』の規模をほぼ正確に反映したものだ、という仮説を提示されたのであった。これは、当時の学問水準―『伊勢物語』は大小さまざまの「歌物語」からなる集合体である、といったような安直な作品認識―に起因するものであったとしても、しかし、あまりにも乱暴な仮説ではなかったか。

10世紀中ごろ過ぎの「業平家集」とは、厳密に言えば、『在中将集』(前田家本)と『雅平本業平集』(宮内庁書両部蔵)の2書を指すのだが、これらの「業平家集」がほんとうに『古今集』と『後撰集』のほか、『伊勢物語』に載せる「男」の歌を、すべて「業平」の歌だと思って採録したのだろうか。もしも、これら「業平家集」2書の編集者(別人だと思われる)が、当時の『伊勢物語』の「男」の歌から真の「業平」歌のみを選別して採録したとするならば、この成長論は脆くも崩れ去ってしまうのである。たとえば、片桐氏は、当時の『伊勢物語』の「男」の歌をすべて「業平」だとして採録した例として、藤原定家の「業平 歌」採歌態度を提示されたが、それらは、明らかに事実誤認としか言いようのないものであった(定家は、『伊勢物語』の「男」の歌について、「業平」と「詠み人知らず」とに明確に弁別している)。これらのことについては、先に公刊した『伊勢物語論集―成立論・作品論―』(2003.2.27、竹林舎)の中で 詳述しているので、そちらを参照していただきたいが、『伊勢物語』という「物語」が存在することで、「業平家集」というような個人歌集が制作される理由が 発生するとも言えるのであって、『伊勢物語』の「男」の歌が、みな「業平」の歌だと信じられていたのなら、逆に、わざわざ「業平家集」など、作る必要はなかったのではないかと思われる。

個人的なことになるが、私が、片桐氏の「成長論」批判を初めて本格的にまとめたのが、東洋大学大学院へ提出した修士論文『伊勢物語多元成立論の批判的考察』(1977(昭和52)年1月)であった。その後、この「片桐氏説批判」のみを特化したかたちで、「『伊勢物語』成長論について―成長論批判―」を、 『東洋』誌上に発表した。1979年(昭和54)1月のことであった。その年の11月30日、石田穣二博士は、『新版伊勢物語』(角川文庫)を上梓されたのだが、この「解説」のなかに、石田博士にとっては初めての、正面からの「片桐氏説批判」を展開されたのだった。その後のある日、石田先生は私を研究室に 招き入れ、『新版伊勢物語』(角川文庫)出版後の、その「解説」への反響(反論もあった)について、その詳細を具体的に報告してくださった。私は、今でも、この時のことを忘れない。

私は、片桐氏の「成長論」が一時期、確説として通用したことを遺憾とする立場であるが、しかし、これは、『伊勢物語』研究者の責任であることは言うまでもないことだ。『伊勢物語』が、けっして、単なる「歌物語集」ではないことを強力に証明していかなければならないと思う。紫式部をして、天徳4年(960) の時点において『伊勢物語』が「古」く「深き心」を有すると言わしめた、その明確な認識のレベルにまで、我々は立ち返らなければならないのだ。

2010.8.20 河地修

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