-伊勢物語論のための草稿的ノート-
第27回
「母なむ藤原なりける」考―没落と貴種流離譚(一)
『伊勢物語』の第十段は、武蔵国までたどり着いた「昔、男」が、「その国にある女」を「よばひけり」とあるように、男が武蔵の国の女を「よばふ」=求婚(求愛)するという話である。女の父親は反対し母親が賛成するということであるから、この求婚は正当なかたちで行われたのである。つまり、「昔、男」は真面目に結婚を申し出たものと思われるから、忍んで通うといった遊びなどではないのである。
『伊勢物語』は、当然のことながら、その主人公に実在の在原業平を重ねて読むので、「東下り、東国物語」は、一時的に都を離れている貴公子の旅の話(たとえば旅情的な)というようなイメージが強いのだが、この章段の主人公は、武蔵国の女と結婚するというかたちでの定住を望んでいる。
この「昔、男」は、都を離れ東国まで「まどひありく」のであるから、明確な当てなどはなかった。つまり、この男は都では生きていくことができずに東国までさまよってきたいわゆる没落貴族と考える他はないのである。小著(『王城の日本文学文化』「『伊勢物語』と九世紀」文学文化舎)の中でも述べたことだが、『伊勢物語』の「東下り・東国物語」とは、没落貴族たちが主人公なのである。そして、その中核の人物像として在原業平が造型されているわけで、そのあたりに『伊勢物語』の虚構性がクローズアップされる理由がある。なぜなら、史実の在原業平と没落貴族とは直接には結びつかないと思われるからである。
たしかに、史実のなかの在原業平が没落し東国を彷徨したわけではないが、しかし、薬子の変により平城上皇家が没落し、その結果として、臣下在原業平が誕生、さらに言えば、おそらく無官であった期間に東国まで旅をしたという事実譚(古今集等)の存在は、業平を没落の貴公子と呼んでも、それが間違っているということにはけっしてならないいだろう。在原業平は、平城上皇家没落の象徴として、歴史上位置づけることが可能なのである。
さて、第十段の「昔、男」の話である。「その国にある女をよばひけり」とあるように、男は、「武蔵の国」の女に求婚をしたと読むべきである。リアルに考えれば、男はその土地の娘との結婚によって自身の生活を確保することができるのであって、そのことの実現が、「住むべき国」を「求め」るために都を捨てて東国に下る「東下り」の目的の達成ともなるのであった。
しかし、物語は続いて次のように言う。
父は異(こと)人にあはせむと言ひけるを、母なむあてなる人に心つけたりける。 父はなほ人にて、母なむ藤原なりける。さてなむ、あてなる人にと思ひける。
この場合の「異人」とは、この主人公とは「異」なる人ということで、具体的にはその土地の男ということであろう。父親は、娘の婿としては地元の男がいいと言ったのであるが、母親は違った。母親は、「あてなる人に心つけたりける」というのであった。「心つく」とは、心に懸けるというほどの意味で、おそらく、この母親は以前から娘の婿には「あてなる人」という希望を持っていたのである。
そして、物語は続いて「父はなほ人にて、母なむ藤原なりける」と言い、父親の身分や家柄は低いが、母の出身が「藤原氏」であることを言うのである。
藤原氏とはあらためて言うまでもないが、その家格は高い。もともとは「中臣」であって、大化の改新を実行し、中大兄皇子を輔けた中臣(藤原)鎌足を思い起こすことができる。そして、後の中央集権国家の確立の段階において、この氏族の果たした役割はあまりにも重い。
古代律令国家確立の立役者は、鎌足の子の不比等であった。この不比等の子息たちからいわゆる藤原四家(南家・北家・式家・京家)が生まれ、平安京の初期には式家が、そして嵯峨天皇の時代からは北家の時代となったのは周知のことであろう。つまり、平安時代に入ってからは、藤原北家の時代となり、源平藤橘の四氏のなかで最も繁栄した氏族であることは言うまでもない。
今、この藤原出身である「母」が「武蔵の国」にいる。そして、自身の娘の婚姻の相手には、以前から「あてなる人」に「心つけ」ていたというのである。このくだりを読めば、自然の流れとして、この母親は、何らかの事情から「武蔵の国」で結婚することとなり、その結果、夫との間に娘を儲けたとしなければなるまい。
その事情については、物語は語ろうとはしないが、しかし、藤原出身のこの母親にとって、東国に埋没していくことになるであろう自身の結婚を、けっして本意あることとは思っていなかったであろうことは想像できるのである。
―この稿続く―