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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第32回
東国の「いろごのみ」―「人の娘を盗みて」

 

『伊勢物語』の「東下り・東国物語」は、まさに、「貴種流離」の話である。これを業平のイメージに無理に合致させようとしたところに、読み誤りが発生したのではないだろうか。在原業平が没落し食べていくために都を棄てた、という史実はあきらかに存在しないわけで、『伊勢物語』の主人公が在原業平に比定される限り、「東下り」は、没落貴族の流離の話としては読みにくいということになるのである。しかし、「薬子の変と日本文学文化」(『王城の日本文学文化』所収)でも指摘したとおり、在原業平は、薬子の変により没落した平城上皇家の一種鮮やかな光跡としての存在でもあった。そういう意味では、『伊勢物語』に登場する没落貴族たちの象徴的存在であったとは言える。

 

没落の貴族(昔、男)が東国へ下るとはどういうことか―。それは、端的に言えば、生きてゆくためだと言わなくてはならない。つまりは、食べるためなのである。かつて、東国に土着した没落の貴族たちの多くが、やがて力を蓄え、闘争や合従連衡の結果、源氏を中心とする武士集団を形成していったことは周知のことであろう。なかには、陸奥において藤原を名乗る氏族(奥州藤原氏)も現れた。彼らの先祖の大半は、都を離れざるを得なかった没落貴族と見なければならないのであって、たとえば、受領層のなかには、地方に着任、離任後も、何らかの理由で帰京が不可能、もしくは積極的にその土地へ土着する連中も多かった。つまりは、都へ帰っても、食べていくことができなかったのである。

『伊勢物語』の東国に下る諸章段は、けっして絵空事からなる文学作品ではない。九世紀に入って、階級化してゆく貴族社会からこぼれ落ちてゆかざるを得なかった没落貴族たちのリアルな物語なのである。そして、付け加えるならば、彼らは、その没落の困窮のなかで、けっして「うた」をうたうことを忘れなかった。この物語を「歌物語」と呼ぶならば、そういう没落の歌人たちの「歌物語」という側面を忘れてはならない。

 

東国章段の第十二段は、武蔵野でその土地の娘を盗んで駆け落ちしたものの、結局は「国の守」に捉えられてしまうという話である。長いものではないので、次に引用する。

 昔、男ありけり。人のむすめを盗みて、武蔵野へ率てゆくほどに、盗人なりければ、国の守に絡められにけり。  女をば草むらの中に置きて、逃げにけり。道来る人、「この野は盗人あなり」とて、火つけむとす。女わびて、  武蔵野は 今日はな焼きそ 若草の つまも籠もれり われも籠もれり  とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率ていにけり。

  

(昔、男がいた。人の娘を盗んで武蔵野を連れて行くときに、盗人ということで、武蔵 の国守に捕縛されたのであった。  その時、女を草むらの中に隠して逃げたのであった。後を追ってくる人は、「この野に盗人が隠れているようだ」といって、草むらに火をつけようとしたのだった。女は苦しんで、  武蔵野は今日は焼かないでください。私が愛するあの人も籠もっているし、私も籠 もっているのだから)

と詠んだのを聞いて、女を取り戻し、男とともに引き連れて行ったのであった。

 

第十二段の主人公である「人の娘を盗み」「武蔵野へ率て行く」男は、「東下り・東国物語」の流れで読む限り、都から流離してきた男と読むことが妥当だろう。没落の男は、生活のために東国に下ったのであり、その具体的かつ直截的な実践こそ当地の女との婚姻であった。

しかしながら、第十段に見られた「藤原なりける」「母親」のような存在が、都落ちの没落貴族を積極的に迎え入れるケースは、ほとんど稀であったと言わなければならない。従って、婚姻を実現するためには、まずは婚姻前に、その家の娘との関係を秘密裏に既成事実化する必要があったのである。つまりは、親の許可を得ないままの「通ひ」の強行であった。

「よばひ」という言葉があるが、その語原は「呼ばひ」であって、「呼ばふ」、すなわち、呼び続ける、というのが原義であって、求婚するということなのである。しかし、いつしかその「よばひ」には「夜這ひ」というイメージが生まれて、親の目を盗んで娘に通う行為も言うようになった。夜陰に紛れて、男が娘の元に通う行為は、まさに「夜這ひ」という言葉がふさわしい。その結果として、やがて娘の懐妊が明らかになったとき、その婚姻が認められるかどうかは、その時の運次第というものであろうが、早期に露見した場合は、まずは拒絶されたのである。なぜなら、都であれ、地方であれ、その家の娘は、その家の維持と発展のために他家と有効な婚姻を結ばなければならない大切な持ち駒であったからだ。

たとえば、『伊勢物語』「二条后物語(三~六段)」で、藤原高子に業平が通った行為は、明らかに娘の家である藤原北家が拒絶するところとなった。つまり、第五段の「あるじ」が、男(業平である)の「通ひ路」に「夜毎に人をすゑて守らせた」のは、娘の入内を想定する藤原北家としては、ごく当然のことであったと言わねばならない。しかし、一度契りを結んだ男女の関係がなかなか断ち切り難いものがあることは言うまでもなく、ついには、当の高子を「他に隠れにけり」と四段で語られるように、男が通うことができないところへの隔離という措置が取られることになったのである。

だが、破滅を恐れぬ男の情熱は、ついに六段にあるように「女」を大胆にも「盗み」出す行動に出たのである。むろん、このことは藤原北家にとっては一大事であって、兄たち(基経・国経)がこれを実力で阻止したのは言うまでもない。

 

このように、親が許すことのない婚姻の場合は、最終的に男が娘を盗み出すという強硬な行為に及ぶことが多かった。むろん、それは反社会的行為であり、同時に、破滅へと向かう行為でもあった。

『伊勢物語』「二条后物語」の主人公(業平)は、自身の経済的困窮のために婚姻を望んだということは書かれていない。また、そのような状況も想定できない。物語には、ただ男は「本意にはあらで心ざし深かりける」(第四段)と書かれているのみで、不本意ではありながら深く愛してしまった、と言うだけなのである。

「ただ人」時代の高子と業平が、なぜ恋に陥ったのか詳しい事情はわからないが、なんらかの機会があって二人は恋に落ちたのであろう。行く着く先は、むろん、破滅をも辞さぬという情熱の導く結果のものであった。それは、女を盗み出すという行為、すなわち、今言う「駆け落ち」にほかならなかったのである。

 

『伊勢物語』「十二段」の場合、男が女をなぜ盗み出したのかという事情は語られてはいない。しかしながら、その行為が恋の情熱のもたらした結果のものであることは間違いなく、もとは東国を流離する男の生活のための求愛活動であったとはいえ、まさに命懸けの逃避行となってしまったのである。結果として、命を失うまでの危険を招いたのであり、いわば破滅を恐れぬ行動であったと言える。そういう意味では、藤原北家の高子を盗み出した業平同様、それは、恋に命を懸けるという意味に於いて、究極の「いろごのみ」であったとは言えるだろう。

 

2017.3.13 河地修

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