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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第37回
「みちのく」の「いろごのみ」―姉歯の松の女(三)

 

「表記上の問題(「色好み」と「いろごのみ」)は違うが、本稿の筆者が言うところの「いろごのみ」の本質については、折口信夫が述べていることからおおよそのところを導くことができるように思われる。以下、折口信夫の「色好み」についての発言を引用してみよう。

色好みといふのは非常にいけないことだと、近代の我々は考へてをりますけれども、源氏を見ますと、人間の一番立派な美しい徳は色好みである、といふことになつてをります。少なくとも、当代第一、当時の世の中でどんなことをしても人から認められる位置にゐる人のみに認められることなのです。

(折口信夫全集第八巻「源氏物語の男女両主人公」中央公論社)

ここで言う折口の「色好み」とは、「当代第一、当時の世の中でどんなことをしても人から認められる位置にゐる人のみに認められること」と言っているように、古代天皇が有する「徳」を指している。この徳が『源氏物語』の主人公光源氏に与えられているというのであるが、さらに、同じくだりで、折口は次のようにも言っている。

我々の祖先の持つた宮廷観、我々の祖先が尊い人に持つてをつた考へ方が、特殊な點を捉へて言ふと――色好みといふ形で考へられてをつた。其人はどんな女性を選ぶことも出来る。どんな宗教力を持つた強い女性も靡かすことが出来る。どんな美しい、どんな才能に長けた女性も、自分の愛人とすることが出来る。

つまり、天皇、もしくはそれに匹敵する人物は、どのような女性であっても愛することができるということであり、またどのような女性でも我がものとすることができるというのである。こういう「本道の色好み」が、『源氏物語』の光源氏として造型されたというのであるが、ここで言うところの「其人はどんな女性を選ぶことも出来る」という「色好み」の本質に注目してみよう。

この「どんな女性を選ぶこともできる」という指摘は、たとえば、光源氏の藤壺への愛のように、最も禁忌(タブー)とする女性を強く意識しているのであるが、その対極の女性もまた、同様であると言わなければならない。対極の女性とは、「負」の要素に彩られた女性であり、一般的に男性からは相手にされないような女性である。その具体的造型こそ、たとえば、『源氏物語』の「末摘花」(醜女)であり、「源の典侍」(老女)なのであって、こういうヒロイン(と言っていい)もまた、「いろごのみ」の世界には必要とされたのである。

折口が指摘するこのような「いろごのみ」像は、現実世界においては、「観念」としての天皇であると言わねばならない。天皇の在り方については、その本来の性質として、存在するすべてのものに遍く慈愛を注ぐことができるということを考えなければならないのである(『黎明の日本文学文化』「「日本」および「天皇」の成立」)。

この「いろごのみ」に、むろん「好色」の性質を指摘しても間違いではないのであるが、折口の言うように、「当代第一、当時の世の中でどんなことをしても人から認められる位置にゐる人」というのであるから、それは具体的に言うならば、当然「天皇」ということになる。その天皇の本質が、物語世界に具現された人物像―光源氏であって、さらに言えば、その光源氏像造型の原点が『伊勢物語』の主人公在原業平なのであった。

そういう「いろごのみ」像を、『伊勢物語』「第十四段」に指摘するとすれば、まさに、相手が激烈過ぎるほどの野卑な女(姉歯の松の女)であっても、そこに「あはれ」の情愛を持つことができる主人公こそ「いろごのみ」の典型と言わなければならないだろう。

男は、章段の終局において、女に別れの挨拶とも言える歌を贈っている。

栗原の姉歯の松の人ならば都のつとにいざと言はましを,/p>

(美しい栗原の姉歯の松が人のように移動可能であるなら、都への土産として、さあ一緒に行きましょうと言ったでしょう。あなたはその松と同じこと、この土地を離れることができないのですから、それも叶いません、とても残念なことです)

この歌の解釈について、「人ならば」について、「あなたが人並みの女ならの意を寓する」(角川文庫『新版伊勢物語』補注)とするものが多いが、この歌はもともと次の『古今和歌集』「巻二十」「東歌」を翻案とする(替歌である)ものであることは明白である。

をぐろ崎みつの小島の人ならば都のつとにいざと言はましを

(小黒崎の美津の小島が人であるならば、都への携えものとして、さあ一緒にと言いたいものであるのに)

この歌は、東国の「小黒崎の美津の小島」(正確な所在は不明)があまりにも美しいので持ち帰りたいが、「人」ではないのでそれができない。とても残念だということを歌っているのである。

この歌に基づいた十四段の「姉歯の松」である以上、美しい松(姉歯の松の女である)を都に伴いたいが、「人」ではない、つまり、この土地から動くことができないあなたなので、とても残念だという社交辞令としての歌なのである。男の歌に「悪意」や「皮肉」などあるはずはない。むしろ、相手を傷つけることなくふるまう態度が都人にふさわしいのであって、要は、そういう洗練された社交儀礼としての「みやび」を、この「鄙の女」は理解できなかっただけだということなのである。

この「姉歯の松の女」の描き方は、あくまでも「鄙」そのものであって、その姿勢は激越なものがある。しかし、そういう女に対しても、この主人公は、「あはれ」という情愛を注ぐことができるのである。すなわち「いろごのみ」の典型であることを忘れてはならない。

 

2017.4.17 河地修

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