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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第39回
みちのくとの訣別

 

東下り、東国物語、さらに陸奥へと物語は展開したが、結局、「14段」の男は「京へなむまかる」と都への回帰を告げるのであった。そして、物語作者は「15段」において、男の心情を一方的に無視し、「さるさがなきえびす心を見ては、いかがはせむは」(そのような性悪の野蛮な心を見て、いったいどうするというのだ)と、作者から陸奥への決定的な訣別が宣告されたのであった。

都の貴公子が都を追われ、地方を苦難とともに流離し、その各地で様々な出会いを経て都に帰る、というパターンが「貴種流離譚」であった。そして、この帰結は、物語がエンターテイメントである限りは、帰京後の主人公に復活の栄華をもたらすのが典型的な構造と言えたのであるが、『伊勢物語』の場合はどのような物語話型となっているのか。それは、その後展開されるであろう都を舞台とする物語を見なければわからないのである。

実は、『伊勢物語』には、物語の後半と言っていいのだが、若くして陸奥に下り、その後、都で生活をしているという主人公が登場する章段がある。源融の「河原院」でのことを語る「八十一段」である。

その内容は、陰暦十月末の「菊の花移ろひさかりなるに、紅葉のちくさに見ゆるをり」に、河原院の主人である「左の大臣」(源融)が、「親王たち」を招待し、「夜一夜酒を飲み」「夜明け」まで遊ぶということがあった。この時に「この殿」(河原院邸)の「おもしろきをほむる歌」を詠むこととなり、夜明け方、最後の詠者として登場した「そこにありけるかたゐ翁」が詠んだ歌というのが次に掲げるものである。

塩竈にいつか来にけむ朝なぎに釣りする舟はここに寄らなむ

(塩竈の浦にいつの間に来てしまったのだろうか。朝なぎのなかで海に釣りをしている舟はこの塩竈の浦に立ち寄ってほしいものだ)

この歌は、いつの間にか塩竈に来てしまったという体のもので、言わば、河原院の池庭を、実際の「塩竈」と錯覚しているのである。言うまでもなく、源融の「河原院」とは、次に掲げる『古今集』「哀傷」の紀貫之詠からもわかるように、陸奥塩竈の景を再現したものであった。

河原の左の大臣の身まかりて後、かの家にまかりてありけるに、塩竈といふ所のさまをつくれりけるを見てよめる

  君まさで煙たえにし塩竈のうらさびしくも見えわたるかな

 (河原の左大臣がお亡くなりになって後に、その家に来まして佇んでいた時、その庭が塩竈という所を再現していましたのを見て詠んだ歌

  君がお亡くなりになって、塩を焼く煙も絶えてしまったこの塩竈の浦が、うらさびしくも見渡されることですよ)

この紀貫之の歌と詞書からわかるように、源融は、自身の河原院の庭に塩竈の景を再現していたのであった。『伊勢物語』「八十一段」に語られるエピソードは、そのことを前提としているのであって、物語本文に言う「この殿のおもしろき」とは、まさに、塩竈の景の再現ということを指しているのである。つまりは、この河原院の塩竈とは、日本歴史上、最初のテーマパークと言ってもいいのだが、源融が、なぜ陸奥の塩竈の景を自邸「河原院」に再現したのかということを考えるのはおもしろい。しかし、このことは、今は措こう。ただ、この八十一段において、ここ(河原院)が「塩竈」である、ということを証明してみせた人物が、件の「そこにありけるかたゐ翁」であるということに、今は注目しなければならないのである。

この歌を詠った後に、物語作者は、例によって解説的注釈(評)を加えている。

となむ詠みけるは、陸奥に行きたりけるに、あやしくおもしろき所所多かりけり。わがみかど六十余国の中に塩竈といふ所に似たる所なかりけり。さればなむ、かの翁、さらにここをめでて、「塩竈にいつか来にけむ」と詠めりける。

(と、このような歌を詠んだのは、この翁は昔陸奥に行った時に、不思議にも景色が面白い所が数多くあったのだった。我が国六十余りの国の中でも、この塩竈という所に似たところはなかったのだった。そういうことで、あの翁は、ことさらにこの河原院の景を称賛して「塩竈の浦にいつの間に来てしまったのだろうか」と詠んだのであった。)

つまり、この翁=「かたゐ翁」は、昔、陸奥に行ったということがここに明かされているのである。そして、すでに指摘するまでもないが、この翁は、乞食の老人となっているのである。

「かたゐ」とは、いわゆる「乞食」の謂いであって、ここでは、歌を詠ずることによって、生活の糧を得る徒である。それは、『古今集』「真名序」の九世紀の和歌事情を語る箇所、

乞食之客、以此為活計之媒

(乞食ノ客、此レヲ以ッテ活計ノ媒ト為ス)

(乞食の徒は、和歌を詠ずることによって生活の糧を得ていた)

の「乞食之客」であって、ここで言う「此レ」とは「和歌を詠む」ことなのである。

『古今集』「真名序」が言う九世紀の歌人とは、その直前に言っているところの「好色之家」=「好色者たち」であり、そして、この「乞食之客」なのであった。この「乞食之客」こそ、「八十一段」に登場するところの「かたゐ翁」なのであり、「この殿のおもしろきをほむる歌」を詠むことによって、生活の糧を得ていたのではなかったかと思われる。

この「かたゐ翁」は、その昔「みちのく」まで流浪したであろう。そして、多くの景勝地を見た結果、「塩竈」程の名勝はなかったというのである。その体験が、この「河原院」に再現された「塩竈」の景の「おもしろき」を称賛する詠歌につながったのである。しかし、彼は陸奥を流離した没落貴族なのであった。これは、まさに「貴種流離」の一典型と言うほかはないが、彼に栄華はもたらされなかったのである。

貴種流離譚の構図に収まるものではあっても、しかし、現実のものとして、彼は、後年、八十一段に語られるように「乞食(かたゐ)」として歌を詠み、そのことで生活の糧を得ていたのであった。つまりは、流離の果てに待っていたものは、窮極の没落であり、和歌を詠ずることで「食を乞う」ことなのであった。

『伊勢物語』の十四段、十五段の主人公は、陸奥にまで流離したことが語られているが、しかし、両段の主人公は、結局は、そこでの定住は困難であったと考えるほかはないのである。つまり、彼らは都に帰ったのである。没落貴族が陸奥にまで流離し、しかし、得るものなく都に帰るしかはなかったのである。

そして、物語の後半部の「八十一段」で語られるように、彼らは、都に帰っても、そこには安寧の生活はなかった。「十三段」の武蔵国で語られるような婚姻は、さすがに「みちのく」では難しかったのであろう。そういう機微を、「みちのく」=「道の奥」という言葉から読み取るべきなのではあるまいか。

『伊勢物語』前半部において、「みちのく」に対する意識は、絶対的な拒絶と言っていいほどの「都鄙意識」が存在していることを忘れてはならない。

 

2017.5.2 河地修

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