-伊勢物語論のための草稿的ノート-
第44回
「時がうつる」ということ―惟喬親王と惟仁親王(3)
一方で、惟仁親王が生まれる六年前の承和11(844)年、文徳の第一皇子として惟喬親王が生まれたことは、名門復活に賭ける紀氏にとっては大きなものがあった。
紀名虎は、文徳の父仁明天皇にも娘の種子を入内させていたので、かなりの野心家であったのではないか。さらに引き続いて、道康親王(後の文徳天皇)の后として、種子の妹に当たる静子を入内させたということになる。藤原北家の良房には、娘が明子一人であったために、文徳天皇に入内する后としては、遅れを取ったのであった。
このことは、紀名虎にすれば、まさに千載一遇のチャンスと言ってよかった。それに加えて、静子が、道康親王の寵愛を得たことも大きかった。次々に皇子を産む静子は、紀氏再興という夢の実現に向けての切り札でもあったのである。
しかしながら、嘉祥3(850)年3月25日、臨月にあった明子が男子(惟仁親王)を出生したのは、紀氏にとっては、ほとんど掌中にあると思われた珠が、まるで突然こぼれ落ちたかのような暗転であった。
ところで話は変わるが、司馬遼太郎の初期の小説に『外法仏』という作品がある。平安時代前期の政治的軋轢を扱ったもので、密教僧と歩き巫女が登場する怪異譚だが、司馬遼太郎の小説で、平安朝貴族社会を舞台とするものは珍しい。実は、この珍しい司馬の小説こそ、惟喬親王と惟仁親王との立太子争いを題材とするものであった。文徳天皇の即位とそれに伴う立太子のことでの両陣営の緊張は、この時、極度に高まったものと思われる。その時の象徴的な事件が、司馬の小説となった元の伝承ではなかったか。
伝承(小説)では、藤原良房と紀名虎が直接的に呪詛祈祷を命じたということになっているが、厳密には、惟仁親王が誕生する3年前(847年)に名虎は没しているので、この伝承の発生は、あくまでも紀氏と藤原北家との争いという伝承から生まれたものなのであろう。むろん、名虎亡き後の後継は紀有常であったから、あるいは、両陣営における呪詛などというものが本当にあったとしたなら、紀氏の当事者は、有常ということになる。
その紀有常に、「時がうつる」という事態か出来したのは、まさしく惟仁親王の誕生(嘉祥3年、850)であったに違いない。そして、その年のうちには、藤原北家を後見とする惟仁親王の立太子という運びになったわけだが、しかし、当時の貴族社会は、あるいは、第一皇子である惟喬親王の立太子を予想していたと言えるかもしれない。
『日本三代実録』「巻一」には、惟仁親王(清和)が第一皇子の惟喬親王を飛び越えて立太子に及んだ趣旨の「童謡」(わざうた)が記述されている。
大枝を超えて、走り超えて、躍り騰がり超えて、我や護る田にや、探り漁り食む鴫や、雄々い鴫や。
(大きな枝を超え、走り超えて、跳ね超えて、自分が護る田に、探り漁りついばむ鴫よ、みごとな鴫よ)
「童謡」とは、古代において、政治上の風刺や批判を、あたかも子供の唄のような趣で流行させたもので、当時の人々の率直な心情の表白と言える。『日本三代実録』は、この「童謡」の後、「識者以為」として、次のような解説を載せている。
大枝謂大兄也、是時、文徳天皇有四皇子、第一惟喬親王、第二惟條親王、第三惟彦親王、皇太子是第四皇子也、天意若曰超三兄而立、故有三超之謡焉。
(大枝は大兄を謂ふ也、是時、文徳天皇に四皇子有り、第一惟喬親王、第二惟條親王、第三惟彦親王、皇太子は是の第四皇子也、天意は若く曰ふ、三兄を超えて立つと、故に此の三超乃謡有り。)
読んでわかるとおり、「童謡」に云うところの「大枝」とは、文徳天皇の第一皇子であった惟喬親王であった。第四皇子の惟仁親王は、この「大枝」である惟喬親王だけではなく、第二、第三の親王たちを、「走り超えて、躍り騰がり超えて」行き、「自分が護る田」で「探り漁りついばむ」「雄々い鴫」であったというのである。強烈な風刺と言うほかはない。
収載するところの「童謡」は、正面切って言うわけにはいかない清和天皇の皇位継承を暗喩のかたちで批判したものであろう。当時の貴族社会が持つところの惟喬親王への同情と反北家の感情が率直に表れていると言うべきである。それにしても、『日本三代実録』の中心的編者は、北家の藤原時平と言っていい。しかし、これらのことを、『日本三代実録』という国史(正史ということになる)に堂々と記載した時平の気概には、ただ驚嘆するばかりである。