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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第45回
「時がうつる」ということ―惟喬親王と惟仁親王(4)

 

藤原良房は、清和天皇の生母となった明子に「歳経れば齢は老いぬしかはあれど花をし見ればもの思ひなし」という満願の和歌を献上した。藤原北家の栄華の盛りを、桜花爛漫の春に託しての詠歌であった。

この歌は、『古今和歌集』「巻一」「春上」に載せられるものであることはすでに述べた。「巻一」は、いわゆる「四季」の部立(ぶだて)が展開される端緒の巻だが、『古今集』の「四季」は、「春上」巻頭の「年内立春」の歌=「年の内に春は来にけり一年を去年とや言はむ今年とや言はむ」(在原元方)に始まり、その後、緩やかな季節の推移と時間の経過に伴いつつ、やがて一年が閉じられる。つまり、一年の廻りが、和歌世界によって有機的組織的に配列されているのである。しかも、その配列の意識は、たんに季節の推移のみによるものではなく、その他のさまざまな原理によっても、一首ごとにその位置が決められている。

その際に機能するさまざまな原理としては、おおまかな「時間の推移」のもと、主として歌材毎にまとめられる「群」(グループ)の意識が設定され、さらに、前後の和歌が微妙に連鎖していくかたちを取っている。つまり、一首の和歌は、その前にある和歌の次に来るものとして置かれ、また、次に置かれる和歌の前にあるものとして、その歌の位置が決定されるのである。連鎖の要素としては、歌語の繋がり(懸詞・縁語的発想)が重視されることが多いが、あるいは、単純な語彙の連続といった次元のものも多い。あるいはまた、何らかの要素によって、和歌やその他に、相互対照的連関性を持たせるといったようなことも認めることができる。

このような観点から、件の良房の和歌を検討してみると、まずその和歌の位置としては、「桜の盛り」を歌い上げた歌群に収められていることがわかる。『古今集』「春」には、桜の盛りを詠ったものは多いが、しかし、一首毎の位置は、先に言ったような配列の原理によって決定されている。まず、良房の和歌とその前に置かれる和歌とを並べてみよう。

(題しらず・詠み人しらず)
(51)山桜 我見にくれば 春霞 峯にも尾にも 立ち隠しつつ
(染殿の后の御前に、花がめに桜の花をささせ給へるを見て詠める・良房)
(52)歳経れば 齢は老いぬ しかはあれど 花をし見れば もの思ひなし

51番歌と52番歌とは、特に歌語の持つ懸詞縁語的な連鎖性は認められないが、あえて言うならば、両歌ともに「見る」という語彙の連鎖によって繋がれていることであろう。さらに言えば、51番歌の「山桜」に対して、52番歌は、「染殿」内の「花がめ」に挿された「室内の桜」という対照があろう。そして、次に問題となるのは、52番歌とそれに続く53番歌との連鎖という問題である。53番歌の詞書と和歌を次に掲げてみよう。

渚の院にて桜を見てよめる
                       在原業平
(53)世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
(この世の中にまったく桜の花がなかったならば春を過ごす人の心というものはどんなにか穏やかなものであっただろうに)

有名な業平の歌であり、古来、桜を愛でる心の激しい日本人の心理―桜の開花を待ち望み、咲いたら咲いたで、満開の見頃はいつか、さらに風雨に散りはしないか、そしていつまで咲き続けるのか、などといった桜の季節の慌ただしい心情―を詠いあげたものとして著名であろう。

しかし、『古今集』の場合、この業平の歌が、良房の歌のすぐ後に置かれることの理由が、よくわからないのである。つまり、両者の間に連鎖する歌語や語彙が見当たらないのである。

見てわかるとおり、この歌の詞書は、たんに「渚の院にて桜を見てよめる」とあるだけで、具体的な詠歌事情は不明という趣がある。が、実は、この業平詠は、『伊勢物語』「八十二段」に詳しく載せられているのである。そこでは、その詠歌の事情が、きわめて詳細、かつ、具体的に語られていると言っていい。要するに、『古今集』では伝えられていない真相が述べられているといった体なのである。そして、この「八十二段」こそ、「惟喬親王章段」として名高い一連の物語(82、83、85段)の端緒ともなる中心章段でもあったのだ。

八十二段は『伊勢物語』のなかでも最も長大な章段の一つではあるが、当該和歌が詠われる前半の場面を次に引用しよう。

昔、惟喬親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に、宮ありけり。年ごとの桜の花盛りには、その宮へなむおはしましける。

その時、右の馬の頭なりける人を、常に率ておはしましけり。時世経て久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。狩りはねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。 今狩りする交野の渚の家、その院の桜、ことにおもしろし。その木のもとに下りゐて、枝を折りてかざしにさして、上、中、下、みな歌よみけり。馬の頭なりける人の詠める、

(世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

となむ詠みたりける。また人の歌、

散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき

とて、その木のもとは立ちて帰るに、日暮れになりぬ。
(昔、惟喬親王と申し上げる親王がおいでであった。山崎の向こうに、水無瀬という所に、宮があったのだった。毎年の桜の花盛りには、その宮にお出でになったのであった。

その時には、右の馬の頭であった人を、常に連れていらっしゃったのであった。時代が経過して長くなってしまったので、その人の名前は忘れてしまった。一行は、鷹狩りは熱心に行わずに、酒ばかりを飲みながら、和歌を詠ずることに熱中したのであった。そのころ鷹狩りを行う交野の渚の邸の、その院に咲く桜は格別に美しい。そこで、彼らは、桜の木のもとに馬から降りて座って、桜の枝を冠に挿して、身分の上中下を問わず、全員が和歌を詠じたのであった。馬の頭であった人が詠んだ歌、

この世の中にまったく桜の花がなかったならば、春を過ごす人の心というものはどんなにか穏やかなものであっただろうに

と詠んだのであった。別の人が詠んだ歌

(散るからこそいっそう桜はすばらしい。この辛い世の中にどうしていつまでも変わることなくいられようか。)

「八十一段」で語られることとは、簡単に言えば、惟喬親王を囲む面々が、「年ごとの桜の花盛り」には、「水無瀬」の「宮」、「交野の渚の家」の「院」(渚の院)を訪れて花見に興じ、一同はおおいに酒を飲み、そして「上、中、下」全員で歌を詠じたというものである。しかし、ここで注意しなければならないことは、この記事にあることがいったいいつのことであったのかということである。

惟喬親王章段では、主人公(業平)を、「右の馬の頭なりける人」と言っていることに注目したい。業平が「右の馬の頭」として在任していたのは、貞観7(865)年から貞観17(875)年ぐらいまでと思われるので、その間、業平は41歳から51歳までということになる。しかし、次の「八十二段」では、

かくしつつまうで仕うまつりけるを、思ひのほかに、御髪おろしたまうてけり。
(このようにお傍にあがりつつお仕え申し上げていたが、思いも掛けないことに、親王は出家なさったのであった。)

と、惟喬親王の突然の出家が語られるのである。

惟喬親王の出家は、貞観14(872)年7月のことであったから、渚の院での話は、さらに貞観13(871)年の春までのこと、と絞ることができる。つまり、業平が「右馬の頭」となった貞観7(865)年から貞観13(871)年までの「年ごとの桜の花盛り」の時の風景ということになるだろう。そして、この風景こそ、取りも直さず、立太子争いに敗れ(嘉祥3(850)年)、さらに、惟仁親王(清和天皇)の天皇即位もあった天安2(858)年以降の、惟喬親王・紀氏側の政治的敗北の結果としての、業平紀氏側の反栄華=没落世界に展開される「放縦」の風景にほかならなかったのである。

『古今集』「春上」の業平詠(52番)は、まさに、栄華を目前にしつつも、それを手に入れることができなかった惟喬親王(紀氏)側の没落の世界(憂き世)からの詠歌に他ならなかったのだ。栄華の象徴としての「桜」が、いっそのこと、この世の中にまったく無ければよかったのだ、と歎ずる心情からは、あと一歩のところで栄華を手中にすることができた彼らの、いっそうの無念の思いが切実に響いてくるのではないか。

この歌をさりげなく良房の歌の直後に並べて置いたのは、『古今』撰者の紀貫之である。紀貫之は、『古今集』の資料にもなった「八十二段」に反映される原資料から、『古今集』では「渚の院にて桜を見てよめる」という簡略な詞書とし、一見、桜を愛でる心情の歌としてそこに収めたということになる。しかし、その内実は、良房藤原北家の栄華の盛り(惟仁親王)と業平紀氏の没落(惟喬親王)という「明」と「暗」とを、さりげなく見事に対照化するに至ったのである。

 

2017.6.30 河地修

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