-伊勢物語論のための草稿的ノート-
第63回
業平と小町(25段)(一)
『古今集』と『伊勢物語』
「あづさ弓章段(24段)」に続く25段は、『伊勢物語』の成立時期を措定する有力な章段と言っていい。『伊勢物語』の成立に関しては、かつて片桐洋一氏が提唱したいわゆる「成長論」が学界の主導的な考え方の様相を呈したが、『源氏物語』「絵合」巻の精緻な検討や、あるいは、成長論そのものの論証過程の矛盾的破綻などから、今日では、これを一つの学説として認めることはできない。
成立の問題と絡むことだが、『古今集』に載せる在原業平の詠歌すべてが『伊勢物語』に存在することから、当該資料の両者の比較検討は必須の検討作業と言えた。つまり、どちらが先に成立したかということになるのだが、この検証についても、その先後問題は真っ向から対立することも少なくなかったのである。
ところが、この25段については、当初から、ほぼその見解は一致を見ていると言っていい。すなわち、『伊勢物語』が、『古今集』「恋三」に連続して載せる「在原業平」と「小野小町」の歌を、物語として仕立てたというものである。次に『古今集』と『伊勢物語』「25段」とを並べて掲げてみよう。
<古今集>
(題しらず)
業平朝臣
秋の野に 笹わけし朝の 袖よりも 逢はで来し夜ぞ ひちまさりける
小野小町
みるめなき わが身を浦と 知らねばや かれなで海人の 足たゆく来る
<伊勢物語・25段>
昔、男ありけり。あはじとも言はざりける女の、さすがなりけるがもとに、言ひやりける、
秋の野に 笹わけし朝の 袖よりも 逢はで来し夜ぞ ひちまさりける
色好みなる女、返し、
みるめなき わが身を浦と 知らねばや かれなで海人の 足たゆく来る
(昔、男がいた。逢わないとも言わなかった女が、それでもなかなか逢ってはくれなかったので、歌を送った
女のもとから帰る時の秋の野に、露の置いた笹で濡れる袖よりも、逢うこともなく空しく帰った夜の涙の袖の方が、余計に濡れていることだ
色好みの女が返した歌
海松布が生えない浦であることも知らないからか、途切れることなく漁師は、足を重く引きずって来ることだ―その漁師と同じこと、あなたも私とは逢えないということがわかっていながら、やって来ることだ)
『古今集』「恋三」では、見てわかるとおり、「業平朝臣」と「小野小町」の詠歌は、別々に詠われており、その二首が、何らかの配列の意識によって、ここに並置されたものと思われる。その『古今集』の配列意識の問題は、ひとまず措くとして、この両者を『伊勢物語』が、その「第25段」としてまとめ上げたという分析は動かないであろう。すなわち、『古今集』が「先」で『伊勢物語』が「後」ということで、両者の先後関係は決定するということである。
これを、百歩譲ったとして、『伊勢』→『古今』を仮定してみた場合、『伊勢物語』「25段」の「男」を「在原業平」として『古今集』に収録することはできても、「色好みなる女」を「小野小町」として収録することは難しいのではないか。もしそうだとしても、元の資料(この場合は「25段」である)に「贈答」としてあるものを、わざわざ分離させたうえ隣どうしに載せることの意味が分からない。
これは、どう考えても、『伊勢物語』の成立時期は、『古今集』の「後」と考えるほかはないのである。石田穣二博士が、次のように断定されるのは当然のことと言わねばならないだろう。
『古今集』との関係については古くから注目されており、諸説があるが、『古今集』に並記されている業平と小町の歌に拠って、これを贈答に仕立てたものとする見方は、動かしがたい。本段は、初冠本の成立が『古今集』の成立より遅れることを示すほとんど決定的な材料と言ってよい。(『新版伊勢物語』補注 角川文庫)