-伊勢物語論のための草稿的ノート-
第80回
「天の下の色好み」―第39段の諸問題(三)
「色好み」と和歌
言うまでもないことだが、「色好み」と呼ばれる人は「和歌」が得意でなければならなかった。つまり好色者が女人にアプローチする場合、その手段となるべきものは「和歌」だったからである。
この「色好み」という言葉が、文献上初めて登場するのは、『古今和歌集』「仮名序」(905年)である。この「仮名序」は、九世紀(八百年代)、和歌が天皇のもとを離れていた間の事情について、次のように述べている。
今の世の中、色につき、人の心、花になりにけるより、あだなる歌はかなき言のみ出で来れば、色好みの家に埋もれ木の人知れぬこととなりて、まめなる所には、花薄穂に出だすべきことにもあらずなりにたり。
(新しい世の中は、華やかになり、人の心も、派手なものを好むようになったので、色めいた歌や軽薄な歌ばかりが作り出されるので、歌は、好色者たちの世界でのみ詠まれ多くの人には知られないものとなって、きちんとしなければならない場所には、ほんの少しでも提出することもできないようなものになってしまった。)
ここで言う「色好み」とは、むろん「好色者」のことである。言うまでもないことだが、好色の徒は、「恋」の世界で積極的に行動する人のことであって、それは、同時に「和歌」を積極的に詠み掛ける人にほかならなかった。従って、彼らは、たとえば、四季折々の移り変わりの風趣には敏感でなければならず、常に、その時々に応じた歌を作り出さなければならなかったのである。そうでなければ、当時の貴族社会に生きる女たちには、恋愛の対象として相手にされるはずはなかったのである。
たとえば、「色好み」について、辞書には次のような解説が載せられている。
実際的なことよりも風流、風雅な方面に関心や理解があること、また、その人。
(『日本国語大辞典(小学館)』)
これなどは、当時の「色好み」の、いわば結果的な好尚に基づく解説と言うべきであって、つまり、恋の世界に生きる好色者たちは、そのような特性がなければ通用しなかっただけのことなのである。風流や風雅の最高の実践者でなければ、女たちの心を捉えることはできなかったということなのである。しかし、繰り返すが、この言葉(色好み)の純粋な意義としては、この解説は、必ずしも正しいものとは言えない。
さて、この「仮名序」で言う「今の世の中」とは、「平安新京」という謂いであって、具体的には、嵯峨天皇以降の時代を指している。薬子の変(810年)を経て、嵯峨天皇が主導する時代(弘仁年間)は、嵯峨の好尚を反映して、唐風色の強い文化が隆盛したのは周知の通りである。その傾向は、ほとんど9世紀半ば過ぎの貞観年間ごろまで続いたと言ってもよく、すなわち、文化史で言うところの「弘仁貞観文化」と言われる時代であって、その文化的な特徴は、「唐風謳歌」、あるいは、「国風暗黒」と呼ばれることで知られていよう。
文学史でよく言われる「国風暗黒時代」とは、むろん、この時代を指すのであるが、しかし、よくよく考えてみれば、「国風」というものが「暗黒」であるはずがない。「国風」とは「くにぶり」ということであって、その国特有の風儀(文化)を指す。それが「暗黒」とは、ずいぶん極端な言葉のように思えるが、つまりは、見えない、ということだけのことなのである。しかし、その国の文化が暗黒のように見えないはずはなく、要は、朝廷(天皇の周辺)において、その「国風(くにぶり)」の色彩が薄くなっていたというだけのことであった。
当たり前のことだが、そこに「国」がある限り、「国風」がなくなるということはないが、しかし、ともすると、自分たちの国のことゆえに、逆に、当事者には、強く意識されにくいということはあるであろう。しかも、表面的には、弘仁貞観年間は唐風の謳歌する時代であったから、こと天皇とその周辺に限定すれば、見えにくかった、ということはよくわかる。
「仮名序」において、「今の世の中」と言っているのは、平安京遷都後から『古今和歌集』成立頃までのほぼ1世紀のことで、大まかに言えば、朝廷の風儀は、唐風であった。この間、国風である「和歌」は、結果的に、「恋」の世界で詠われていた、ということを言っているわけで、その強力な具現者が「色好み」であったということであるから、和歌史における9世紀、「色好み」たちの果たした役割は大きい。
『伊勢物語』「第39段」に見える「天の下の色好み源至といふ人」の和歌が、「天の下の色好みの歌」としては「なほぞありける」(色好みの歌としては平凡であった)という表現には、裏を返せば、9世紀の和歌の歴史を支えた「色好み」たちへの「うたびと」としての評価が隠されているのである。
ここには、『古今和歌集』に通底する姿勢があると言わなければならない。