-伊勢物語論のための草稿的ノート-
第87回
「武蔵野の心なるべし」(41段)(二)
『古今和歌集』との問題
このことは、何度も、そして繰り返し述べておかなければならない。この物語と『古今和歌集』との問題である。
両者の関係ということでは、これまで、その「先後」の問題について論争が続いた。つまり、どちらが先でどちらが後か、ということなのだが、その場合、「作品」としての『古今和歌集』と「作品」としての『伊勢物語』のことでなければならないのだが、それぞれには「作品」を構成する「元の素材」があるものだから、その素材(個別の和歌や章段)の成立時期まで云々する論が現われて、一時期、この研究は錯綜、混迷を深めた。このことは、『古今和歌集』と『伊勢物語』に対する無理解以外の何物でもなかった。
『古今和歌集』の成立は、延喜5(905)年である。このことは動かない。一時期、「亭子院歌合」(延喜13(913)年)の歌が集中にあることで、その年以降とする説が提示されたが、村瀬敏夫氏の精緻な研究(『古今集の基盤と周辺』)によって、延喜5(905)年の成立が確説となった。
『古今和歌集』の場合、「仮名序」が正序としてあり、さらに、「真名序」も附載されているので、両序を詳細に分析すれば、成立の事情は、ほぼ知ることができる。それに拠れば、勅撰集の撰集にあたって、「各の家の集」と「古来の旧歌」が献上されたのである。それらの歌は、『古今和歌集』に収載された総数(1,100首)よりもはるかに多かったわけで、だからこそ、後の「勅撰和歌集」も引き続き撰集されねばならなかったのである。
この『古今和歌集』に収められている個別の和歌の成立時期は、当たり前だが、千差万別なのであって、そのことで『古今和歌集』の成立は多岐にわたる、というようなことを言う人はいないであろう。名称に「古今」とあるように、新旧様々な和歌が集められ、全20巻の「作品」としての「歌集」に編纂された時点が『古今和歌集』の成立であることは言うまでもあるまい。
同じことが、『伊勢物語』にも言えるのである。「作品」として『伊勢物語』が制作された時点が「成立」の時点なのであって、その「作品」とは、いわゆる「初冠本」(一代記)のことなのである。この時点で、既成の「話」(個別の歌物語)を取り込むこともあったであろうし、新しく創作された「話」もあったであろう。あるいは、既成の「話」に、何らかの手を加える、といったようなこともあったに違いない。『古今和歌集』と重複して載せられている「章段」は、おおむね、何らかの手を加えたものと考えていい。
つまり、『伊勢物語』の章段には、『古今和歌集』の和歌と詞書が多くみられるが、それらは、何らかの事情で、物語の作者が手を加えたものなのである。このことは、拙著『伊勢物語論集―成立論・作品論―』(竹林舎)に詳しいが、この「手を加える」という作業が、『伊勢物語』作者の真骨頂を表すものなのである。
『古今和歌集』「巻十七」「雑上」の当該歌
『伊勢物語』「41段」の和歌は、『古今和歌集』「巻十七」「雑下」に載せられている。次に、詞書とともに掲げよう。
妻(め)のおとうとをもてはべりける人に、うへの衣をおくるとて、よみてやりける
なりひらの朝臣
むらさきの 色濃きときは 目もはるに 野なる草木ぞ わかれざりける
(妻の妹を妻としております人に、袍の衣を贈るということで、詠んで遣った
業平朝臣
紫草の緑が色濃い時は、目も遥か見渡す限り緑の色で、野の草木はみな同じなのであるよ)
この業平の詠歌は、在原氏の「家集」に収められていたものと推測していい。『古今和歌集』に採歌される際、詠歌の事情が「詞書」として載せられたものなのだが、「詞書」は、もともとの「家集」にあったものに近いのではないか。なぜならば、『古今和歌集』の「詞書」は、それぞれが長短様々であって、それは、もとのかたちをほぼそのまま反映した結果と思われるからである。
さて、この業平の詠歌に附された「詞書」はわかりやすい。「妻(め)のおとうと」とは、業平の妻の妹(「おとうと」は年下の兄弟のこと、男女共に用いる)ということで、それを「もてはべりける人」とは、妹の夫に他ならない。つまり、業平が、自分の「うへの衣」を、妻の妹の夫に贈った時の詠歌なのである。
「うへの衣」は、男性貴族の正装である衣冠束帯の時の「袍」(上着)で、位階によってその色彩が定められている。この『古今和歌集』の「詞書」では、この時の業平の位階が正確にはわからないので、どのような色の「袍」か不明と言うしかない。だが、妻の妹の夫、ということを考えるならば、業平より年下であることは動かない。したがって、位階は業平より下位であって、業平の昔の位階に相当する「袍」を贈った、ということになろう。つまり、業平は、もう使用しなくなった「袍」を、妻の妹の夫に贈ったのである。
こういったことは、いつの時代でもよくあることなのではないか。「お下がり」と言えばそういうことになるが、「袍」は通常用いるものではないので、傷みも比較的少なかったのである。使用しなくなった「袍」を近親者の後輩に譲るということは、当時としてはよく見られた光景でもあったろう。
さて、業平の歌である。業平は、自分の妻の妹の夫に「うへの衣」(袍)を贈ることになった。それに歌を添えたというのであるから、内容はその時にふさわしいものでなければならない。つまり、下の句の「野なる草木ぞわかれざりける」と詠んだのは、妻の妹の夫ということであれば、自分と兄弟同然だから、という気持を強調してみせたのである。ただ、上の句の「むらさき」については、少しく丁寧に考えてみなければならない。
―この稿続く―