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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第94回
「ゆく螢雲の上までいぬべくは」―真の「いろごのみ」の物語(45段)(二)

 

時は水無月のつごもり、いと暑きころほひ

45段について、「内容もすぐれているが、文章もよい」と評価されたのは、故石田穣二博士であった(『伊勢物語注釈稿』竹林舎)。前述したように、娘の死の間際の告白から、その気持を聞いた親が男に懇願、そこから取るものも取り敢えぬ体で病床に駆けつける男の姿を描き、そして、非情にも「死にければ」と言い放つまでのテンポは、屈折する文脈に緊張感がみなぎって、見事としか言いようがない。そして、娘の死を受けて「つれづれと籠りをりけり」と、そのまま喪に服する男の情態も、きわめてリアリティーにあふれている。

男にしてみれば、むろん「娘」は妻ではないから、正式な喪に服することはない。しかし、死穢に触れたことは事実であったから、しばらくは、忌みに籠らねばならない。男は、その場所として娘の家を選んだのであって、当然のことだが、男にすれば所在ないことであったろう。物語が、「つれづれと籠りをりけり」と語る所以である。「籠りをりけり」の「をり」は、継続を表す補助動詞であるから、男の立場からすれば、この間の「つれづれ」は、特に長く感じられたに違いない。

それを承けて、物語は、「時は水無月のつごもり、いと暑きころほひに、宵はあそびをりて」と、男の置かれた情況を、さらに具体的に語る。「水無月のつごもり」とは、立秋直前の晩夏だが、まだうだるような暑さのころである。その「いと暑きころほひ」に、男は、「宵はあそびをりて」と描かれる。

「あそぶ」は、中古語としては「音楽」を奏する意で用いられることが多いので、ここでも男は、何か管絃を奏したのであろう。死んだ娘の魂を慰めることも意識したであろうが、「つれづれ」であったことからも楽器を奏でたものと思われる。この「あそぶ」行為について、娘の霊を慰めるためとか、男が自分の「つれづれ」を慰めるためとか、諸注、その解の確定をめぐって喧しい限りだが、そのどちらか一方に限定することもあるまい。

「宵」から「夜ふけ」て、場面は、「やや涼しき風吹きけり」と、「秋」の到来を思わせることを告げる。と、そこへ、「夏」の典型的風物である「螢」が、空へ「高く飛び上がる」という瞬間的な光景を描き出すのである。秋が近づき、そのタイミングで、おそらくは一個の螢が空高く飛び上がるという光景は、まるで一幅の印象画のようであるが、和歌の世界で言えば、これは、夏から秋への鮮やかな移行と言うべきであろう。

その光景は、物語が言うとおり、「螢高く飛び上がる」一瞬の点景と言うべきもので、けっして「高く飛び上がる螢」ではなかった。その点景を、「この男、見ふせりて、」と、続くのであって、細かいことを言うようだが、「螢高く飛び上がる」は、現行の表記では、読点で一呼吸置いて、次に続かなければならない。なぜなら、この点景から、「ゆく螢」の和歌が詠まれるからである。

 

並置される二首の和歌

45段には、章段末に、二首の和歌が並置されている。「ゆく螢」の歌は、そのまま直前の物語本文を承けたものだが、二首目の歌の扱いが難しいということで、諸説が乱立している。念のために以下に引いてみよう。

ゆく螢雲の上までいぬべくは秋風吹くと雁に告げこせ

暮れがたき夏のひぐらしながむればそのこととなくものぞかなしき

このように二首を単純に並置するかたちが、『伊勢物語』の他の章段には見られないことから、45段の本文そのものへ不信を持つ人もいたようで、たとえば、「塗籠本」は、この二首を二段に分けて別物に仕立てている。むろん、本章段への無理解から来る改竄と言っていい。この無理解は、二首目の歌の置き方への無理解から来たもので、よく読めば、こういう形にした作者の狙いは明白である。

一首目の和歌は、娘が亡くなったことを直接に承けた一首であって、わかりやすい。多くの注釈が指摘するように、亡くなった娘の魂の蘇りを願う歌とすべきであろう。ただ、この歌の場合、初句に「ゆく螢雲の上までいぬべくは」と詠い出されるため、「螢」に娘の「魂」を重ねやすいようなイメージがある。しかし、「螢」はすでに述べたように、「夏」の表徴であって、立秋を明日に控えた晩夏を描いているに過ぎない。その「螢」が「高く飛び上がる」ことから、「雲の上までいぬべくは秋風吹くと雁に告げこせ」と歌ったのである。

娘の魂の蘇りは、「雲の上」を渡る「雁」に願うのである。この時代、「雁」だけではないが、渡り鳥の多くは、「常世」(死者の住む国と考えればよい)との往来が信じられていたからで、秋、「常世」から飛来するであろう「雁」に、娘の魂を持ち帰ってくれるように願ったのである。

問題は、「暮れがたき」の歌である。この歌は、内容から言って、「螢高く飛び上がる、」という情況を直接に承けたものではない。「暮れがたき夏のひぐらしながむれば」とは、長い夏の一日を所在なく物思いにふける、ということで、物語本文との関係から言えば、「つれづれと籠りをりけり」の情況を詠じたものと言うことができる。つまり、男の服喪生活の全般的印象を反映したものなのである。そして、「暮れがたき夏の日暮らし」とあることから、実際の詠歌は昼間のことであって、「ゆく螢」が夜の詠歌であることと、それは対照的に並置されたものと言えよう。

45段は、ある貴族の家に出入りしていた「昔、男」に人知れず恋をした娘と、それを娘の危篤時に知った男との、きわめて特異な恋物語と言える。その特異さとは、男と女との接点なき恋物語と言えるからで、この男女は、生前はむろんのこと、娘の最期においても、はたして言葉を交わすことができたのかどうか、それさえも定かではない。そういう意味では、恋そのものがきわめて特異なのであって、そういう特異さは、当の「昔、男」が強く認識したに違いない。「そのこととなくものぞかなしき」とは、そういう男の、深い嘆息とともに、思わず漏れるところとなった偽らざる心情であったに違いない。

『伊勢物語』は、大きく言えば、『萬葉集』以降『古今和歌集』までの9世紀の和歌とその歌人たちの物語と言えるが、そのなかでは、「いろごのみ」たちの物語(恋の物語)が圧倒的に多い。それは、『古今和歌集』「序」が9世紀の和歌の歴史を担った最大の功労者として、「いろごのみ」たち―「色好みの家」(仮名序)「好色之家」(真名序)―を挙げていることと軌を一にしている。本章段は、そういう「いろごのみ」である「昔、男」の生涯における一つの逸話を語るものであって、直接的には接点のなかった娘のために、その死を悼みつつ蘇りを願う物語を描いたのである。やさしさにあふれた真の「いろごのみ」の物語と言うべきであろう。

 

『後撰和歌集』の業平詠のこと

ところで、本章段の二首のうち「ゆく螢」の歌は、『後撰和歌集』「巻五」「秋上」に、「題知らず、業平朝臣」として載せる歌である。つまり、「在原業平」の詠歌であることを『後撰和歌集』が示しているわけで、これをどう考えるかという問題がある。

『後撰和歌集』は、天暦5(951)年、村上天皇の勅命により、宮中の昭陽舎(梨壺)に撰和歌所が置かれ、いわゆる「梨壺の五人」によって編纂されたものである。『古今和歌集』(905年)以降、『後撰和歌集』成立までの新しく詠まれた和歌もむろん多いが、紀貫之、伊勢、凡河内躬恒などの古今集時代の歌も入集しており、それらは、『古今和歌集』撰修の際、『古今和歌集』には採歌されなかったものである。この業平詠も、そういう性質のものであって、何らかの理由で、『古今和歌集』の撰からは洩れたものと考えられる。

この『後撰和歌集』の業平詠は、もともと『古今和歌集』撰進時のものと思われ、『後撰和歌集』撰集にあたって、「秋風」「雁」という歌語によって「秋上」に収録されたのであろう。45段の時制は、立秋前夜の「水無月のつごもり」であるから、厳密に言えば「夏」であって、そういう意味でも、この物語と一体となった当該和歌から、『後撰和歌集』の「秋上」(その位置は後半である)に入集することはあり得ない。

したがって、『伊勢物語』「45段」は、『古今和歌集』撰進時に採収された業平詠「ゆく螢」を基に物語化されたと考えるほかはない。つまり、この物語の作者は、宮中の和歌所に集められた「各々家集、古来旧歌」(『古今和歌集』「真名序」)を閲覧し、さらには、自由にそれらを利用する立場にあった人物と考えられるのである。

本稿の筆者が、「紀貫之『伊勢物語』作者説」を強く支持する理由の一つがここにもある。

 

 

2021.8.15 河地修

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