-伊勢物語論のための草稿的ノート-
第101回
56段補遺―『伊勢物語』の文体(4段・21段・56段・93段)
前回のコラム(第100回)では、この物語の配列原理の一つとして、「縁語、もしくは縁語的発想による和歌の連鎖」ということを指摘したが、これはすでに述べたように、この物語の作者(編者でもある)の資質とでも言うべきものであろうと思う。
この稿の筆者は、『伊勢物語』の作者(編者)を「紀貫之」と措定するが、その根拠の一つとして、「文体」の特質を挙げることができる。この研究は、すでに山田清市氏による一連の研究があるが、私が注目したのは、『古今和歌集』「詞書」、『土佐日記』、『伊勢物語』のそれぞれの文体の共通点の指摘というものであった。これらは、指摘として、ある意味、動かすことの出来ない明確な事実を示しているわけで、仮説や推論といったような性質のものではなかったが、いわゆる成長論が、そういった真摯な研究を蔭に押しやったような印象がある。「不断の成長増益」を繰り返しほぼ今日の『伊勢物語』が成立した、というような仮説からは、「作品」というものやその「作者」、あるいは「文体」などといった研究は、生まれようもないからである。
とにもかくにも、われわれは、成長などといった安易な考え方からは、脱却しなければならない。仮説を立てるのはいいとして、それにはその論を展開するだけの客観的事実というものがなければならない。成長論の、いわゆるその論拠たるものは、遠慮のない言い方をするならば、まことにあやふやなものであった。
ところで、『伊勢物語』の文体的特徴として、前回取り上げた第56段の物語本文の表現が指摘できる。正確に言えば、第4段、第21段、第56段、第93段に共通して見られる文体であって、後にも先にも、『伊勢物語』以外の作品には認められない表現様式なのである。次に各章段から、その箇所を抜粋して掲げてみよう。
第4段
~またの年の睦月に、梅の花ざかりに、去年を恋ひて、行きて、立ちて見、居て見、見れど、去年に似るべくもあらず、うち泣きて、~
(~翌年の正月に、梅の花ざかりに、去年のことを恋しく思って、そこに行って、立っては見、座っては見、懸命に見るけれども、去年に似ているはずもない、男は、思わず泣いて、)
第21段
~いづ方に求め行かむと、門に出でて、と見、かう見、見けれど、いづこをはかりともおぼえざりければ、~
(何処に探しに行こうかと、門に出て、あちらを見、こちらを見たりして、懸命に見たけれども、)
第56段
昔、男、伏して思ひ、起きて思ひ、思ひあまりて、
(昔、男が、横になっては思い、起きては思い、思い余って、)
第93段
~すこし頼みぬべきさまにやありけむ、伏して思ひ、起きて思ひ、思ひわびて、詠める、~
(~少し望みを持ってもよさそうな様子であったのだろうか、横になっては思い、起きては思い、思い苦しんで、詠んだ、~)
これら4章段に見られる下線を付した表現には、明らかに共通のスタイルが見て取れるであろう。これらの表現の特徴は、対立する概念を並列的に置き、それらに対する行為を繰り返し畳み込む表現を形成するところである。たとえば、4段は、「立ちて見、居て見、」の「立つ」と「居る」、21段は、「と見、かう見、」の「と」と「かう」、そして、56、93段は、「伏して思ひ、起きて思ひ、」の「伏す」と「起く」が対立する概念であり、それらに対して、それぞれ、「見る」「思ふ」などといった行為を繰り返し、畳み込んで表現されている。こういった特殊な表現によって、主人公の行為が、きわめて激しいものであることが強調されているのである。
安直な書写本においては、一連の行為を表す最後の動詞を「剰語」と判断したものか、省略しているものもあるが、これらは、明確に措辞として成り立つところの「文体」と見なければならない。
この特色ある「文体」は、『伊勢物語』以外には認めることができない点において、明らかに、この物語の作者の個性とでも言うべきものに帰されるであろう。その表現の源泉についても、さらに今後、研究を深めてゆかねばならぬと思っている。
2022.12.18 河地修
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