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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第103回
長岡故京(58段)(二)

 

伊都内親王と業平

57段の特異さは、何と言っても、その舞台が「長岡故京」であるということである。そもそも「心つきて色好みなる男」が、「長岡といふ所に家つくりてをりけり」とは、どういうことなのであろうか。しかも、その隣には、「宮ばら」(複数の宮)があって、「こともなき女ども」(悪くはない女房たち)がいるというのである。さらに言うならば、物語後半の叙述「この宮に集まり来ゐてありければ」から、この男の「家」もまた、「宮」であることが明白なのである。

「宮」とは「御屋」であって、原義としては、「神」もしくは「天皇」の「御殿」を指す言葉である。後者の場合は、広く皇族一般の「御殿」にも汎用されるようになった。ここでは、後者であることは言うまでもない。やがて貴人の名を直接表すことが憚られるようになってからは、住居が人物の呼称としても用いられるようになったのである。

さて「長岡」と「宮」と言った場合、その線上に浮かぶものは、桓武天皇の内親王である「伊都内親王」を措いて他にはあるまい。そのことは、『古今和歌集』「巻十七」「雑歌上」に載せる業平との贈答歌の詞書から明らかである。『伊勢物語』「八十四段」にも同内容のものがあるが、『古今和歌集』から掲げてみよう。

業平朝臣の母の内親王(みこ)、長岡に住み侍りける時に、業平、宮仕へすとて、時々もえまかりとぶらはず侍りければ、師走ばかりに母の内親王のもとより、頓(とみ)のこととて文(ふみ)をもてまうで来たり。あけて見れば、言葉はなくて、ありける歌、

老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしき君かな

返し

業平朝臣

世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もと嘆く人の子のため

(在原業平の母の伊都内親王が、長岡に住んでいました時に、業平は、宮廷勤めをするということで、時々であってもなかなか訪ねることができなかったものですから、師走になって母の伊都内親王から、至急のことということで手紙を使者が持参した。開いて見ると、文面はなくて、書かれていた歌

年老いてしまうと、避けられない死別というものがあるというので、いよいよますますお逢いしたいあなたよ

返歌

業平朝臣

この世の中から、避けられない死別というものが無くなってほしいものです、母にいつまでもいつまでも生きていてほしいと嘆く子供のためにも)

余りにも有名な母と子の贈答だが、この遣り取りは、伊都内親王の晩年のことと思われるので、その没年である貞観3年(861)に近い頃であろう(9月19日に亡くなっているのでこの年より前である)。仮に、この時を前年の貞観2年(860)の「師走」とするならば、業平は36歳であって、『日本三代実録』に鑑みるに、この時期の業平には、官職の記述が見られない。この年より3年後の貞観5年(863)の『日本三代実録』の二月十日の件に、

散位従五位上在原朝臣業平、左兵衛権佐

とあり、「散位」であった。伊都内親王の晩年においても、おそらく、業平は「散位」であった可能性が高いのではないか。「散位」とは、位階だけがあって官職のないケースを指すのである。

「散位」であった業平が、「宮仕へす」というのは齟齬をきたしているようにも思われるが、「宮仕へ」とは、幅の広い意味でも用いられるし、また、訪問を求める母へ、それができない何らかの事情があって、いわば口実に使ったものなのかもしれない。いずれにせよ、この時期の業平は、都を離れて長岡へ向かうことができなかったのであろう。このことの詳細な検討は、「八十四段」の読解において行いたいと思う。

58段に戻る。この「心つきて色好みなる男」とは何者か、ということなのであるが、「長岡」―「伊都内親王」―「業平」という連想から、この男は業平である可能性は高いということにはなるであろう。しかしながら、厳密に言えば、その確証もまた得られないのであって、この物語での主人公のあり方―「業平らしき男」という方向での理解にとどめておきたいと思う。

ただし、「長岡故京」の「宮ばら」は、その存在を含めて、この物語のテーマに深く関わって来る問題である。

 

―この稿続く―

 

2023.2.19 河地修

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