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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第104回
長岡故京(58段)(三)

 

長岡故京と伊都内親王

『古今和歌集』からもわかるように、伊都内親王が、その晩年「長岡故京」に住んだことは事実である。本来は、平安京内に住居があったが、理由があって移居したのであろう。その時期は、あるいは、嘉祥元年(848)7月29日以降だったかと思われる。

『續日本後紀』「巻十八」(嘉祥元年(848)7月29日)には、平安京を広く襲った落雷の記事があるが、そこに「伊都内親王家屋」も被害にあったことが記されている。すなわち、落雷による家屋の焼失があったわけで、おそらく、その被災によって、長岡に移ることになったのではないか。このことは、伊都内親王には、当時、長岡に、規模の大小は分からないが、住居とすることができる「別業(べつげふ)」があったことを示していよう。しかも、それは、いわゆる「荘園」だったのではないかと思われる。

伊都内親王は、桓武天皇の皇女として出生し、内親王の宣旨は受けたが、記録から徴するに「無品」であった。とすれば、位階に伴う封禄などは発生しないのであって、桓武天皇によって、ある程度の荘園が与えられたものと推測せざるを得ない。一人の親として、桓武天皇は、その最晩年の皇女であった伊都内親王の将来を憂慮したのであろう。

 

伊都内親王関連小年譜

延暦25年(806) 桓武天皇崩御
天長元年(824) 大宰府より帰京した阿保親王と結婚
天長2年(825) 業平誕生
天長10年(833) 山階寺(興福寺)に墾田十六町余・荘一処・畠一町を寄進
承和9年(842) 阿保親王薨去
嘉祥元年(848) 平安京内の「伊都内親王家屋」が落雷のために焼失
貞観3年(861) 伊都内親王薨去

 

58段は、その舞台となる「宮」が、伊都内親王の荘園であろうかと想像することは十分に可能ではあるが、仮にそうだとしても、その時期が、伊都内親王が移居し、かつ、そこにいた時のことか、あるいは、その前か、さらにまた、死後のことか、そこまでは分からない。ただ、『伊勢物語』の作者としては、この「心つきて色好みなる男」が「業平」と読まれることは、想定していたに違いない。「荘園」を保有する「宮」の「男」(業平)だからこそ、そこで「家」を「造る」ことも、「田刈らむ」とすることも、物語として成り立つことであった。

「田を刈る」とは、言うまでもなく「稲刈り」のことである。この国において稲作農耕を主宰する存在は天皇であって、この物語の主人公は、他章段でも、時に「天皇」の資質を有することが語られるが、基本的に、それと異なることはない。「心つきて色好みなる男」と語られる所以である。

 

長岡故京の没落皇族

そして、「隣なりける宮ばら」については、どう考えるべきであろうか。少なくとも、「長岡」に棲む「宮ばら」である以上、やはり、桓武天皇ゆかりの「宮ばら」と考えるべきであろう。そして、その「宮ばら」は、平安京内においては、すでに住居を構えることができない宮家だったのではあるまいか。つまりは、没落の「宮ばら」であったと思われる。58段に掲げられる三首を検討してみよう。

 

  1. (女)
    荒れにけりあはれいく世の宿なれや住みけむ人のおとづれもせぬ
  2. (男)
    葎生ひて荒れたる宿のうれたきはかりにも鬼のすだくなりけり
  3. (男)
    うちわびて落穂ひろふと聞かませばわれも田づらに行かましものを

これら三首に共通する要素は、まさに「没落」という言葉がふさわしい。最初の「女」の歌は、『古今和歌集』「巻十八」「雑歌下」に、「題知らず」「詠み人知らず」として収載される歌であるが、初句において「荒れにけり」と慨嘆し、「あはれいく世の宿なれや」と、時代から取り残された廃屋同然の「宿」であることを詠う。むろん、男が邸内の奥に隠れたことを揶揄したものだが、旧都長岡故京にふさわしい一首と言える。

二番目の「男」の歌は、「葎生ひて荒れたる宿」と詠うことで、女の詠歌「荒れにけり」に呼応したのだが、ここにも、長岡故京の荒廃した雰囲気が底流にあるであろう。

三番目の「男」の歌は、「女ども」の「穂ひろはむ」という誘いの言葉に応じたものだが、「うちわびて落穂ひろふ」という表現からは、困窮し、旧都に暮らさざるを得ない「宮ばら」の暮らしぶりが見て取れるであろう。

「宮」とは、親王、あるいは内親王その人か、もしくは、その「家」を指す言葉であることはすでに指摘した。そして、「宮家」(親王家・内親王家)は、創設者たる当該天皇の在世中はともかく、その後「御代」の変遷により衰えてゆくことは、言うまでもないことであろう。

58段は、『伊勢物語』の主要テーマを構成する「没落」の階層のなかで、凋落した旧都の「宮家」(皇族)の世界を垣間見ることができる章段の一つなのである。このテーマがいかに重いテーマであるかは、共鳴体として在る『源氏物語』に深く継承されていることから、容易に理解されるのではあるまいか。

なお、かつての長岡京域から西方にある「十輪寺」(現京都市西京区大原野)は、俗に「業平寺」と呼ばれる業平ゆかりの寺である。当寺では、業平が晩年を過ごしたとする伝承があるが、伊都内親王の「一つ子」であった業平が、内親王の死後、その土地を相続したであろうことは間違いのないところで、あるいは、この寺の近隣の区域がそれであったかとも思われ、まことに興深い。

十輪寺本堂

 

十輪寺門前の田地

 

 

2023.2.26 河地修

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