河地修ホームページ Kawaji Osamu
https://www.o-kawaji.info/

王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第105回
東山隠棲(59段)

 

業平の失意と「東山」隠棲

『伊勢物語』の章段配列の原理は、骨格としては「一代記」の型を踏むものであることは言うまでもない。したがって、その流れは、緩やかに時を刻んでゆく。しかし、それはあくまでも大まかなものであって、章段内部においては些少の時の前後もあり、あるいはまた、その流れとは異質の大小様々な配列原理が働いてもいる。たとえば、58段から62段までの章段は、「人の国」(地方)に関わる章段を集めたものと言えるのであって、つまりは地方を舞台とする物語のグループといった趣がある。

「人の国」とは、「田舎(ゐなか)」と同様、「都」の外を指す言葉である。59段の舞台は「東山」であって、京の近くではあるが、その外であることは明白である。つまり、配列としては、明らかに、「長岡」を舞台とする58段を直接承けたものと言えよう。以下、本文と現代語訳を掲げてみる。

昔、男、京をいかが思ひけむ、東山に住まむと思ひ入りて、

住みわびぬ今はかぎりと山里に身を隠すべき宿求めてむ

かくて、ものいたく病みて死に入りたりければ、おもてに水そそきなどして、生きいでて、

わが上に露ぞ置くなる天の川門(と)渡る舟のかいのしずくか

となむ言ひて、生きいでたりける。

(昔、男が、京をどのように思ったのであろうか、東山に住もうと思い決めて、

京で暮らすことが困難で厭になってしまった、もうこれで終わりだと覚悟して、山里に、身を隠すことができるような家を求めることにしよう。

こうして東山に住み、そこで患って、息も絶えてしまったので、顔に水を注いだりして、男は息を吹き返して、

自分の顔の上には露が置かれているようだ、それとも天の川の川戸を渡る舟の櫂のしずくなのか

と歌を詠じて、息を吹き返したのであった。)

筆者は、かつて、本章段についての考察を「「やまと歌」の継承者―『伊勢物語』59段の読みをめぐって―」(『伊勢物語論集-成立論・作品論-』竹林舎、2003、2、27)に発表した。そこで述べた考えは、今日においても変わらないが、今読み返してみると、やや成立の事情に重きを置き過ぎたきらいもあったように思える。章段の理解という点では、やはり、59段も、前段の58段「長岡故京」と同様、零落、没落貴族という観点から読むべき性質のものではないかと思う。 

貴族が零落、没落する事由は様々であるが、59段の場合は、「住みわびぬ…」の歌が、在原業平の詠歌であることは動かない。そして、当該歌は『後撰和歌集』「巻十五」に業平詠として載せるが、その詞書の「世の中を思ひ倦(うん)じてはべりけるころ」や和歌の「住みわびぬ」の表現からも明らかなように、この一首は、印象としては、業平の「不遇の時代」に詠まれたものであろう。この場合の業平の「不遇の時代」とは、おそらく、業平が「散位」(無官)であった頃のことではないかと推測される。

業平の「散位」の時期について、国史である『続日本後記』『日本三代実録』に徴するに、それは、嘉祥二年(849)の叙爵(従五位下、業平25歳)後、惟仁親王立太子(嘉祥三年(850))、文徳天皇崩御、清和天皇即位(天安二年(858))を経て、貞観五年(863)二月までのことと思われる。この時期の業平は、惟喬親王の立太子争いの敗北や高子との恋の破局などがあったことにより、おおいに失意の時代であったことは疑うべくもない。

業平は、この「散位」の時期に「従五位下」から「正六位上」にも降格されており、さらに、いわゆる「東下り」の旅にも出ている。「東下り」も「東山隠棲」も、この時期の業平の不遇の時代を象徴する行動ではなかったかと思うが、ただ、業平の場合、経済的に不如意ということはなかった。その点では、単純に「没落」という言葉では括りにくいが、このあたりの事情については、別稿を用意したい。

この失意の業平が、「正六位上」から「従五位上」に昇格したのは、貞観四年(862)三月七日のことであり、また、「散位」を脱して「左兵衛権佐」に任官したのは、その翌年、貞観五年(863)二月のことである。業平、39歳の年であった。

 

2023.5.7 河地修

一覧へ