-伊勢物語論のための草稿的ノート-
第108回
昔の人の袖の香(60段)(三)―受領層のこと
60段の「男」について―「宇佐の使」
『伊勢物語』の主人公は、在原業平らしき「昔、男」だとはよく言われる。だが、この60段の「昔、男」は、業平のイメージとはかけ離れている。昔妻であった女への残酷な仕打ちを行うという物語構成は、どう見ても「いろごのみ」の業平像とは程遠い。そもそもこの「男」は、当該歌の詠者であるのだから、『古今和歌集』の「詠み人知らず」なのである。業平などであるはずはない。
本文を検討してみよう。「宮仕へいそがしく」とあるのは、「男」のことであって、そのことが原因なのであろう、妻に対しては「心もまめならざりけるほど」であったと言う。具体的に言えば、「宮仕へ」が忙しくて、妻の所へは、なかなか通えなかった、というのである。それほど「宮仕へ」が忙しいというのであるから、その身分は「中の品」か、あるいはそれ以下かと思われるが、この身分について、具体的に考えられる手がかりは、「男」が「宇佐の使」に任ぜられている点であろう。
「宇佐の使」とは、宇佐神宮(宇佐八幡宮、豊前国一の宮)へ派遣される勅使のことで、原則として天皇の即位ごとに幣帛を奉る(奉幣)儀を司る。この60段での「宇佐の使」(この「男」が勅使その人であるとは限らない)が、仮に、その際の勅使を意味すると考えるならば、仁明(833年即位)、文徳(850年即位)、清和(858年即位)、陽成(876年即位)の各天皇即位の時のいずれかと思われる。
また、「宇佐の使」について、「使真(つかひざね)」(正使)に選ばれる人は、和気清麻呂の神託事件(774年)以来、原則として、和気氏一族の五位の臣下から選ばれたので、正使であれば、ここでは和気氏である可能性が高い。ただし、宇佐へは勅使一人で行くことはなかったはずで、60段の「男」が従者の一人であったという可能性もある。いずれにせよ、五位かそれ以下の貴族が選ばれるわけで、本段の「宇佐の使」が「中の品」、いわゆる受領層に属する「男」であることは動かない。
なお、『伊勢物語注釈稿』で、石田穣二先生は、元慶元年(876)の陽成即位の時の「宇佐使」には、在原行平の子息在原友于(ありわらのともゆき)が任命されている史実を指摘され、その上で、「本段の制作と関係があるか否かは、にわかに言い難いが、心に止めておく価値はあるであろう」と述べておられる。
60段の「女」について―「ある国の祗承の官人の妻」
さて、女が新しい夫として選んだのは「ある国の祗承の官人」であった。「ある国」とは、勅使が宇佐に下るまでの途中の国、ということで、明示されていないが、京から宇佐までの山陽道沿いの国のことであろう。「祗承」とは、勅使の接待の役を務める地方の役人のことで、令制の国司を構成する下級の役人(官人)から任ぜられた。おそらく、地方官として下った主典(さかん・四等官)クラスの役人が、この宇佐神宮への勅使の接待の役目を命ぜられたものと思われる。「祗承の官人」と称される所以である。
ここで、60段の「女」は、京での「家刀自」の立場を捨てて、この「官人の妻」になったとはどういうことか、という問題を考えてみたい。
「家刀自」は、44段に既出しているが、この語が「家」と「刀自」との複合語であることは言うまでもない。簡単に言えば、その「家」の家事を預かる主婦というほどの意である。本来、婦人への尊称的な響きがあったと思われるが、時代が下るにつれて、広く使われるようになり、使用人クラスまでも指すようになった。
60段では、使用人ということではなく、小さいながらも、その「家」の家事を預かっていたものと思われる。しかしながら、国司として地方へ下る「まめに思はむといふ人につきて」出て行ったというのであるから、女は、その家の所有者ではなかったのである。つまり、経済的には厳しい立場の女だったと言うべきであろう。
前の夫のことを「心もまめならざりける」と、言ったのは、単に夜離れが続いたということばかりではない。「心も」とあるのは、生活の面での後見も不誠実であったということであろうから、となると、別の男が「まめに思はむ」というのは、生活の保障を約束することも含まれるであろう。それも大きな魅力となって、新しい男の地方への下向に同行することになったのであろう。
当時、下級貴族が国司の一員として地方へ下る場合、家族を伴うことも多かったが、ただ「家」の事全般を「刀自」として預かる、いわゆる「主婦」の場合には、同行は無理だった。その時には、新しい「妻」を連れていくことがあったのである。
この60段の「女」のように、夫である「男」が「心もまめならざりける」事情によって、生活が窮乏したということであれば、地方官として下向する別の「男」に同行することもあり得たであろう。
いずれにしても、この60段は、当時の受領層の人々の生活の厳しさから生まれた物語として理解すべきものであろう。
―この稿続く―
2024.1.20 河地修
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