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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第109回
昔の人の袖の香(60段)(四)―受領層と女

 

国司とともに地方へ下る女

「国司」とは、律令制度における地方官の総称である。その階級は、基本的に「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じよう)」「目(さかん)」の四等官となるが、それとは別に、「目」の下に、「史生(ししやう)」を置く。 任期は四年で、都から派遣されることになるが、それらの多くは家族を伴ったようである。この派遣の対象となる階層を、総体として「受領層」と呼ぶのである。位階は、本来、「従五位上」以下の身分であったが、後には、財政上の理由であろうが、それより上位の階級も対象になっている。また「大国」に位置づけられる国の「守(かみ)」には親王が任ぜられたが、その場合は、基本的に遥任であった。遥任とは、現地に赴くことなく国守に任ぜられるわけで、要は、困窮する親王の経済上の救済策であった。

たとえば『源氏物語』「帚木」巻に登場する空蟬の夫は「伊予の介」であって、「守」は遥任の親王であった。ただ実質的には、「介」が「守」としての任務を果たしたのである。

この伊予の介は、最初の赴任に当たっては空蟬を伴ってはいなかったが、一時帰京した後の赴任では妻として空蟬を伴っている。その時点が、光源氏と空蟬との物語の終局であった。つまり、ヒロインの退場により、二人の物語は終わったのである。空蟬の場合、自身が「家」を所有する「家刀自」ではなかったので、国司の夫の赴任に付き従うのは当然のことであった。

ところで、物語の話ではないが『古今和歌集』「巻十八」「雑下」に、小野小町の和歌が、次のような詞書とともに収められている。

文屋康秀が、参河の掾になりて、「県(あがた)見にはえ出で立たじや」と言ひやれりける返事(かへりごと)に、詠める

(文屋康秀が、三河の国の掾になって、「田舎の見物に行くことはできないか」と言って寄こしたその返事として、詠んだ歌)

小野小町

わびぬれば身をうき草の根をたえて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ

(生活に困窮してつらいので、わが身の上も情けなく、いっそのこと根のない浮草のように、この境涯を断ち切って、今の暮らしから抜け出せるお誘いがあればどこへでも往こうと思います)

文屋康秀が三河の国の「掾」に任ぜられたので、小野小町に一緒に行かないかと誘ったというものだが、要は男の立場からの露骨な誘いということになる。しかし、二人はともに「六歌仙」としての評価を得ており、歌人としての交流もあった。そのためか、康秀は、小町のプライドにも配慮して、一緒に「県」を「見に」行かないか、と婉曲に言ったのである。

小町は、この誘いに対して、「誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ」と、応諾した。この率直な反応ぶりは、小町が、この時いかに生活に困窮していたかがよくわかるというものであろう。絶世の美女にして優れた名声を持つ歌人、という小町ならではの絶頂期の「明」から、それを過ぎた後半生の「暗」への転落のことを考えねばならないだろうが、ここには、当時受領層において、時の経過とともに零落してゆかざるを得なかった女の厳しい現実というものがあざやかに浮かび上がっている。

母系制のなかで、親からの相続に外れた娘の厳しい現実を、紫式部は「浮舟物語」で浮き彫りにしたが、小野小町という人もまた、そういった女の一人であったに違いない。

『伊勢物語』に多く登場するところの無名の女たちは、まさにそのような人々なのであった。

 

2024.6.24 河地修

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