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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第110回
「東下り」(九段)補遺―隅田川の都鳥

 

歌語としての「都鳥」

『伊勢物語』「九段」は、いわゆる「東下り」章段のハイライトをなす章段である。筆者は、過去「伊勢物語・東下りの生成」(『文学論藻』53号、1978.12)を発表し、七、八、九段の制作の過程を跡付けた(『伊勢物語論集―成立論・作品論』(2003.2 竹林舎)所収)。 

簡単に要約すれば、七、八、九段の「東下り」章段は、一人の作者によって制作されたもので、それは、『古今和歌集』「巻九」「羇旅」に連続して載せる二首の在原業平詠とその詞書を基に物語化(補筆修正)、両者の中間に「宇津の山」「富士の山」の両場面を置いて「九段」を成し、さらに、そのまま「七、八段」の両章段を制作したものである。これら三章段は、緊密に連鎖、連繋する性質を有するものとして制作されており、同一作者の明確な制作意図に基づいたものであることは明白である。詳しくは、当該論文を参照していただきたいが、成立論の立場から言うならば、「東下り」(七、八、九段)は、同一人物により、同時的一回的に制作されたものである。 

この拙論については、当時も、あるいは今日に至るまでも、反論と言うようなものは管見に入っておらず、論の正しさはまず動かないものと確信している。ただ、この当時は、学界でいわゆる「成長論」が流行しており、それによると、この「東下り」(七、八、九段)章段などは、およそ100年という歳月をかけて後世の読者たちが各章段を付け加えてできたもの、というような極めて無責任な説が独り歩きをしていたものだから、その成長論批判に主眼を置くことになってしまった。今から思えば、作品論的読解にもう少し重きを置けばよかったと思うことが多い。

ところで、最近、この九段(『古今和歌集』「業平詠」の「詞書」も同じ)に登場する「都鳥」のことが気になり、現在の注釈の多くが、これを「ユリカモメ」とすることにこだわってみた。

筆者は、当時、この「都鳥」については、『能因歌枕』の「添へて詠むべし」という短い解説で事が足りる、という考え方だったから、「都鳥」が、現実の「ユリカモメ」であろうとなかろうと、そのことはさほど気にかけなかったのである。つまり、リアリティーとしての「都鳥」は二の次で、その言葉が、都を恋しく思う端緒となる「歌語」としての「鳥」(都鳥)であれば、まあ、実際はどんな鳥でもいいのではないか、というような気持でいたのである。

 

「都鳥」は「ユリカモメ」である

しかし、いまさらであるが、『古今』も『伊勢』も、この「都鳥」の描写が、実に精密であって、そのリアリティーさには注意しなければならないと思うようになった。念のために、「都鳥」に関する当該箇所の描写と、今日実際に隅田川で見ることのできる「ユリカモメ」の写真を示してみることにする。

 

『伊勢物語』「九段」「隅田川」

さるをりしも、白き鳥の、嘴(はし)と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡し守に問ひければ、「これなむ都鳥」と言ふを聞きて、

(都を偲んでいたちょうどその時に、白い鳥で、嘴と脚とが赤く、鴫の大きさをした鳥が、水の上で自由に遊びながら、魚を食している。京では見ることのない鳥なので、一行の人は皆その鳥を知らない。渡し守に尋ねたところ、「これは都鳥」と言うのを聞いて、)

『古今和歌集』「巻九」「羇旅」「業平詠詞書」

さるをりに、白き鳥の、嘴(はし)と脚と赤き、川のほとりに遊びけり。京には見えぬ鳥なりければ、みな人見知らず。渡し守に「これは何鳥ぞ」と問ひければ、「これなむ都鳥」と言ひけるを聞きて詠める

(都を偲んでいたちょうどその時に、白い鳥で、嘴と脚とが赤いのが、川のほとりで遊んでいた。京では見ることのない鳥だったので、一行の人は皆その鳥を知らない。渡し守に「これは何という鳥か」と尋ねたところ、「これは都鳥」と言ったのを聞いて詠んだ)

 

両者の文章は酷似していて、ほとんど同じである。ただ、「都鳥」についての描写で、『伊勢物語』には、「鴫の大きさなる」という鳥の大きさについての具体的な言及があるが、『古今和歌集』「詞書」にはない。この「鴫の大きさなる」という鳥の具体的な「大きさ」についての言及がないと、「都鳥」の具象としてのイメージ作りは少し難しいようにも思われる。そのあたりの事情から『伊勢物語』では、作者が「鴫の大きさ」という具体的な加筆に及んだのではあるまいか。これは、「物語」が、第三者である読者を強く意識するのに対して、和歌の「詞書」は、詠み手自身の備忘的なものから生まれたという性質が強いからであろう。

ともかく、「白き鳥の、嘴(はし)と脚と赤き」「鴫の大きさなる」は、作者がその鳥の名などを実際に知っていたかどうかは別にして、ある特定の鳥を指し示していると考えていいように思われる。

それは、結論から言えば、諸注が指摘するように、今日の「ユリカモメ」であろう。その特徴を照らし合わせるに、「白き鳥の、嘴(はし)と脚と赤き、鴫の大きさなる」鳥とは、「ユリカモメ」以外に該当する鳥がいないからである。

ユリカモメ
「白き鳥の、嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる」特徴がよく表れている
隅田公園内にて
2015年1月11日、筆者撮影

 

「ユリカモメ」は、冬鳥(渡り鳥)である

「都鳥」が「ユリカモメ」であることについては、もはや何ら疑問をさしはさむ余地はあるまい。だから、「都鳥」が実際には何鳥であったのかは、解決済みとしなければならないのである。しかし、筆者は、2024年の正月、あることに気付いて、驚愕したことをここに正直に述べたいと思う。

それは、「ユリカモメ」について、あらためて鳥類図鑑等で調べていた時のことだ。ふと気が付いたのは、これが「冬鳥」である、ということなのであった。つまり、この鳥は、晩秋、もしくは初冬にこの列島に飛来し、春が来ると北方に帰ってゆく「渡り鳥」であった、ということなのである。

今までこのことを知らずに来たことは、笑止千万と言うべきかもしれないが、その時、さらに思わず気付いたのは、「九段」の「隅田川」に続く前の「富士の山」の場面は、その季節を、明快に「五月のつごもり」としているということであった。

富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり。

「五月のつごもり」は、現在では六月の末であって、まさに、真夏に向かう時季である。となれば、「富士の山」の場面から「なほ行き行きて」と続く「隅田川」の場面の季節は、時の経過をどんなに長く見積もったとしても、いきなり「秋」を通り越して「冬」とすることは、いささか間が空きすぎるのではないか、という疑念が浮上して来ざるを得ないだろう。

この時、筆者は、驚愕とか、愕然とか、これらの言葉で表現する心情を通り越して、ほとんど夜も寝られないほどの興奮状態に陥ってしまった。

それは、どういうことなのか―。むろん、このことは、「都鳥」が「ユリカモメ」ではない、ということではない。

それは、『伊勢物語』「九段」の制作の事情に直接関わること―、さらに言えば、昭和53年(1978)に発表した拙論「伊勢物語・東下りの生成」(『文学論藻』53号)の論証の正しさを、46年の時が経過して、まさに思いがけぬ方面から、それを強く確信することになった、ということなのだ。

『伊勢物語』の制作にあたって、作者は『古今和歌集』「巻九」「羇旅」に連続して載せる二首の業平詠を基に物語化したとは、前出の拙論で明らかにしたとおりである。その際に、繰り返すことになるが、「八橋」と「隅田川」の場面の中間に、「宇津の山」と「富士の山」の両場面を置いたため、「八橋」に連続する両場面の季節は「夏」ということになったのである。

そして、その「富士の山」の場面から、そのまま「なほ行き行きて」と繋ぎ「隅田川」の場面が連続することになったものだから、結果的に、季節は「富士の山」の「夏」に続いている印象になったのである。おそらく『古今和歌集』「羇旅」に並んで載せる二首の業平詠(かきつはた・都鳥)は、別々の機会か、あるいは、双方の詠歌時期の間に、かなりの時の経過があったのであろう。 

このことは、作者による物語制作上の破綻というようなものではない。作者は、この場面に登場する業平たちと同様、「隅田川」に遊ぶ「都鳥」の素性を知らなかったのである。だから、何のためらいもなく、「富士の山」の場面に「隅田川」の場面を繋いだのである。「都鳥」が、「冬」に渡ってくる「ユリカモメ」であるとは知らない都人であるからこそ、九段の物語化において、「五月のつごもり」の「富士の山」の場面と「隅田川」の両場面が直接繋がるような印象を持たせることになったのである。

たとえば、平安時代後期の歌人藤原教長(1106~1178))は、次の一首を詠んでいる。

隅田川今も流れはありながらまた都鳥跡だにもなし

この詠は、保元の乱(1156年)で崇徳上皇方に加担して捕えられた藤原教長が、同年8月3日、常陸国に流罪となった時の詠である。その折に渡った「隅田川」は、昔のままの流れであるのに、「都鳥」は一羽もいないと嘆いたのである。教長が「隅田川」を渡ったのは、明らかに「夏」であって、この時季に「ユリカモメ」が飛んでいないのは当然のことであった。

ちなみに、京都の鴨川に、「ユリカモメ」が飛来するようになったのは、1974年(昭和49)初頭のことである。このことは「京都大学新聞」(2016.1.16)の特集記事で知ることができることを、茅場康雄氏(昭和女子大学名誉教授)からご教示頂いた。記して厚く謝意を申し上げる。

 

 

2024.8.10 河地修

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